2005年11月01日

ベネズエラに対する米国の介入の仕組み
3部構成の第1部
〔How United States Intervention Against Venezuela Works
Part 1 of 3:Original Article in English/ZNet原文

フィリップ・エイジー〔Philip Agee〕venezuelanalysis (english version);2005年9月9日


要約、CIA選挙介入、ベネズエラに対する雛形としてのニカラグア

要約

米国政府が、ウゴ・チャベス・フリアス大統領と彼を支持する政党連合を政権から追放する為に、ベネズエラの政治的反対派に有利となる、複数の作戦からなる計画を実行している事は周知の事実である。ビル・クリントンの政権により開始され、ジョージ・W・ブッシュの下で増大された、この計画に対する予算は、2001年の約200万ドルから、2005年には900万ドルに跳ね上がり、それは「民主主義を促進」し、「紛争を解決」し、「市民生活を強化」する活動として偽装されている。それは、ボリバル主義の革命的過程に終止符を打つことを決めた政治政党、NGO〔非政府組織〕、マスメディア、組合、実業家による、広範囲にわたる組織網に対する資金提供、訓練、助言、そして指導によって構成されている。計画は明確な短期・中期・長期の目標を掲げ、流動的なベネズエラの政治的過程の変化に容易に適応している。

ベネズエラにおける政治的介入の計画は、世界中で国務省(DS)、国際開発庁(〔US〕AID)、中央情報局(CIA)、そして米国民主主義基金(NED)とその4つの提携基金により主導された多数の計画の1つである。〔NEDと提携している〕それらの基金は共和党による国際共和研究所(IRI)、民主党による米国民主党国際研究所(NDI)、米商工会議所による国際民間企業センター(CIPE)、そして米国の主要な全国組合連合である米国労働総同盟・産別会議(AFL-CIO)による米国国際労働連帯センター(ACILS)である。これに加え、この計画は提携した組織体の国際組織網の後援を受けている。

〔ベネズエラ首都〕カラカスにある米国大使館のAID役員と、同じくカラカスにあり、大使館の管理下にある3つの「私有」事務所、IRI(2000年設置)、NDI(2001年)、米国のコンサルタント会社のDevelopment Alternatives, Inc(DAI)(2002年)と呼ばれるAIDの請負業者を通して、様々な団体が彼らの作戦を実行している。上記の3つの事務所は、それらが資金を提供している多数のベネズエラ人受益者と共に作戦を進展させている。その資金源は国務省、AID、NEDそして、証拠はいまだ上がってないが、おそらくCIAから流出している。この最初の3つ〔国務省、AID、NED〕による作戦は何百という公文書に広範囲にわたり述べられている。その文書は、米国人ジャーナリストのジェレミー・ビッグウッド〔Jeremy Bigwood〕が、公開時には多くが黒塗りされるとはいうものの、政府文書を機密種別から外し公表することを要請する法である、情報自由法〔Freedom of Information Act〕により入手したものである。

米国介入計画のベネズエラ人提携者は、2002年4月のチャベス大統領に対する失敗に終わったクーデター、2002年12月から2003年2月までの石油締め出し・ストライキ、そして2004年8月の信任投票に関与していた。第一陣である彼らの3つの企てが失敗したことにより、上記の米国の諸組織は現在2005年と2006年のベネズエラ全国選挙のために計画を立て、組織している。この分析はこの計画がどの様に作用し、それが意味する危機を示すことにある。

A.いくつかの歴史上の前例

ベネズエラの選挙過程に対する米国の介入は、1947年のCIA創設から始まった活動の継続以外のなにものでもない。その年の10月、情報局を設立する法令にトルーマン大統領が調印した僅か1ヵ月後、彼はCIAに、イタリアでの1948年4月に計画された国政選挙において、イタリア共産党(PCI)の勝利を妨げる作戦を開始するよう命令した。この選挙は第2次世界大戦終結後、初の国政選挙であり、ファシズムに対する抵抗運動の一翼を担ったため名声を博していた共産主義者らは、イタリアにおける米国の支配に対する真の脅威としてワシントンでは受け止められていた。バチカンと提携して、CIAはPCIを失脚させ、キリスト教民主党を支持する複数の秘密作戦を編成した。報道はトルーマンがこの介入のためにCIAに、当時としては多額の金である1000万ドルを投じたことを示唆している。結果は願った通りになった――キリスト教民主が楽勝した。

CIAによる秘密選挙作戦の企ては継続し、政治政党、組合、学生と青年団体、文化人・職業人・知識人の諸社会、女性団体と宗教団体、情報メディアなどに対する潜入や操作と共に、決まった手順で行われる隠密作戦の分野となった。これらの作戦の範囲は世界的規模に亘り、その時勢の政治的状況にもよるが、実質的に全ての市民社会団体が標的となった。1976年のCIAの歴史に対する下院調査は、CIAの秘密活動の最も常習的な分野が政治介入であったことをさらけ出した。

秘密活動の初期から、CIAが提供した資金を正当化する、あるいは隠すという、受益者が抱えていた絶え間ない難題にCIAは悩まされていた。この問題をある程度解決するため、CIAは協力的な米国諸基金との関係を確立し、それらを通して外国の受取人に資金を注いだ。同時に自らの基金の組織網を創設し、その組織網はCIAと契約した弁護士が処理した書類以外の何物でもないことがしばしばあった。

1967年2月、米国の報道が、利用された諸基金と、多くの援助されていた外国団体の名前を暴いた時、CIAの秘密資金提供組織の大部分が崩壊した。この不祥事の2ヵ月後、CIAと亡命キューバ人社会との関連で知られる、マイアミの議員ダンテ・ファセル〔Dante Fascell〕が議会で、その時点まではCIAにより秘密裏に資金提供されていた外国民間団体に対し、公に資金を供給する民間基金の設立を提案した。しかしその時点ではファセルの提案は支持を獲得できず、CIAは1973年のチリにおける軍事クーデターを誘発させた

様な秘密活動の首謀者としての政府の部門として継続した。

その後、ベトナムにおける米国の敗北と、ウォーターゲート事件で頂点に達する続けざまの不祥事を引き起こすこととなる、議会両院で行われたCIAに対する調査とが同時期に起きた1975年から、上層部の米国対外政策立案者の中から新たな学派が現れた。ジミー・カーター政権(1977年―1981年)の期間中、対外政策上層部に、世界中(フィリピン、イラン、南米南部地域〔Southern Cone:アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルを含む地域〕、中米、等)の米国に支援された抑圧的な独裁政権は、米国の長期の利益を維持する最善の解決策ではないという概括的な考えが生まれてきた。この利益とは根本的に第一次資源、労働、世界市場、特に第三世界と俗にいう市場を利用する権利〔free access〕のことである。この民主主義を独裁政治体制よりも好む新たな概念は、プロジェクト民主主義〔Democracy Project〕として知られるようになる。1979年に政府と民間両方の出資によりAmerican Political Foundation(APF)が設立され、両方の政治政党〔民主・共和〕、企業と組合部門が関与した。その目的は米国がいかにしてその外国利益を、米国連邦体制あるいは欧州の議会制を基にした、自由に選出された民間政府を通して、より安全に保護できるかを明らかにすることであった。

APFは国家安全保障会議に属したCIA高官の指導の下、研究と調査を開始した。2年間の研究の後、その結論は、自由・社会民主・キリスト教民主の政党がそれぞれ連邦政府に資金供給された民間財団を有する、ドイツ連邦共和国の風習に似たものを採用するということであった。この諸財団は、政治政党と政治的信念を共有する他の海外団体を支援した。APFの勧告は広く受け入れられ、1983年11月に議会は、米国民主主義基金を設立する法案を通過させ、1984会計年度用に、1400万ドルを基金に授与した。

この新たな基金NEDは国務省の指揮下に置かれ、議会に毎年承認された資金を、資金注入が目的で創られた4つの提携基金を通して流した。それは共和党による国際共和研究所(IRI)、民主党による米国民主党国際研究所(NDI)、米商工会議所による国際民間企業センター(CIPE)、そして米国の主要な全国組合連合である米国労働総同盟・産別会議(AFL-CIO)による米国国際労働連帯センター(ACILS)である。1967年以来この計画を促進することを止めなかった、マイアミの議員であるダンテ・ファセルはNEDの第1回理事会の理事に任命された。

NEDとその提携基金は米国の利益――とりわけ民営化〔=私有化〕、規制緩和、組合の統制、社会事業縮小、関税の撤廃そして市場を利用する権利という新自由主義政策――に賛成する政治政党や、他の外国市民社会による団体に対し資金を流す仕組みとして考え出された。この仕組みの全体は昔も今も、米国政府対外政策の道具以外のなにものでもない。それにもかかわらず、NEDと提携基金は常に、彼らの作戦は私的であるという偽りの印象を維持しようと努めてきており、実の所NEDはNGOの法的地位を有している。

米国国際開発庁(AID)とCIAはこの「民主主義促進」計画に完全に関与している。NED作戦の初めの年である1984年に、AIDはOffice of Democratic Initiatives(ODI)と呼ばれる事務局を設立し、それは1994年に、NEDとは別に、外国の市民社会と選挙過程に資金を流す役割と共に、移行イニシアティブ室Office of Transition Initiatives(OTI)と改名された。おそらくOTIの初代高官らはAIDに組み込まれていたCIAの選挙・市民社会作戦専門家であっただろう。外国の警察官を支援し、訓練するために米国公安局〔Office of Public Safety〕がAID内に設立された1960年代初期にも似たような事が起きている。CIA内部のコード名「DTBAIL」の下、警察援助計画で数年間働いていたCIA高官らは、それらの計画を「技術的援助」として拡大する為、その偽装した地位をただ単に新たなAIDの局に移した。AIDは「公共安全」局を多くの諸外国に設立し、世界中で最悪の人権侵害者となる数万人の警察を訓練した。

1980年代からODI/OTIはNEDと提携した4つの基金を直接通し、諸計画に出資し、近年OTIはそれらの計画にNEDが流すよりも多く金を流してきた。OTIとNEDという2つの資金援助源は、米国諸基金、コンサルタント会社、広報活動事務所の広範囲に亘る組織網を通し、資金を流している。この様な仕組みは最終的に資金を受け取る者が、米国政府による資金供給を隠すのに役立っている。それにも関わらず米国政府は資金の使い道に対する完全な管理を保持している。

これに加えて、CIAは、NEDとOTIが「公に」支援を受けている者達に、秘密裏に資金を提供することができる。例を挙げれば、外国計画指導者らの忠義と規律を保証するための補足俸給という形である。同様に、ある種の計画はある程度のみNEDとOTIにより資金提供され、受取人は残りの資金を自ら集めることを義務付けている。CIAは、まるでそれらが個人、企業、あるいは民間団体から来ているかのように、その資金を提供することができる。

AIDとNEDのどちらも、直接外国の政治政党に資金提供することを禁じられていると言い張り、故に彼らはその活動が党派とは関係がなく、「市民社会の強化」に専念していると皮肉にも主張する。とはいうものの、彼らの計画は米国の利益に適い、反対勢力に不利に働く政治勢力を常に支援する。彼らは、市民団体・コンサルタント会社・基金の組織網を通すことにより、問題なく政治政党に資金と他の支援を与えているのである。

B.ニカラグア:新たな「プロジェクト民主主義」の初めての作戦

1980年代の10年間、米国対外政策の優先事項のひとつは、ニカラグアでサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を政権から追放することであった。介入は2つの基本的な方針を採った。1つめの手段は、CIAと、その後にはホワイトハウスと国家安全保障会議に基礎を置いた、オリバー・ノース〔Oliver North〕のネットワークにより組織・供給・指導された「コントラ」として知られる準軍的なゲリラ勢力であった。別の手段は、CIA・AID・NEDとその4つの提携基金が組織した作戦を通した選挙介入であった。NEDにとってニカラグアは、資金を流し、選挙で勝利することが出来る政治的反対派の開発を指導する、自らの手腕をためす初めての試験であった。(この歴史はウィリアム・I・ロビンソン〔William I. Robinson〕著「A Faustian Bargain: U.S. Intervention in the Nicaraguan Elections」Westview Press, Boulder, Colorado, 1992で具体的に述べられている。)

ニカラグアでのコントラによるテロ行為、惨劇と経済的損害についてはよく知られている。だが、コントラは戦場で敗北した。(前記のロビンソンに加え、ホリー・スクラー〔Holly Sklar〕著「Washington's War on Nicaragua」 South End Press, Boston, 1988も参照。)8年の苦闘の期間中(1980年―1987年)コントラはニカラグアのどの村や市も乗っ取り、確保することができなかった。しかし、この戦争が起きた全地域、そしてグアテマラとエルサルバドルの戦争における破壊的な影響の結果、1987年に平和を達成する為、中米の大統領らはエスキプラス合意〔Esquipulas Agreements〕と呼ばれた妥協の一括合意に達した。この合意は武力衝突を市民・政党闘争に変えることを求め、1990年にサンディニスタ戦線の敗北に終わる、ニカラグアの選挙過程に対し大規模な米国介入を許す隙を与えた。

既にCIAは1984年のニカラグア選挙に介入しており、その時彼らは反対派指導者の大統領候補アルトゥーロ・クルス〔Arturo Cruz〕を擁立した。当時CIAはクルスに6千ドルの月給を支払っていた。だが彼の立候補は偽りであり、計画は、彼が立候補し、選挙の直前にサンディニスタが自らに都合のいい様に選挙過程を不正操作したと主張し、立候補を取り消すというものであった。それでもいくつかの政党は参加し、サンディニスタ戦線は67%の票を取得した。1990年の選挙では、米国は数十年に亘るCIAの選挙過程における経験を基に新たな技法を試みた。

新たな選挙介入が真剣に始まったのは1987年のエスキプラス合意後であり、3つの主要な仕組みを展開することにより構成された。1)大統領職と他の公職に、共通の立候補者を後援する主要な野党連合。2)政党・組合・企業団体・市民団体の政治戦線。3)推定上無党派だが、現実には反サンディニスタである全国的規模の市民社会による政治参加の促進と選挙監視。米国が現在同じ手法を、2005年と2006年の選挙の準備として、ベネズエラにおいて適用していることを後述する。

事実上、サンディニスタがソモサを抑え勝利した1979年7月以来、「ラ・プレンサ〔La Prensa〕」紙を含む反対派は秘密資金を、CIAを通しカーター政権から受け取っていた。反対派の中心は右翼実業化・資本家・地主の団体、民間企業最高会議(Consejo Superior de la Empresa Privada, COSEP)であった。1981年に、COSEPとは別に、AFL-CIOと提携した4つの保守政党と2つの組合団体を含むニカラグア民主協議会(Coordinadora Democratica Nicaraguense, CDN)を設立・強化するため、レーガン政権はCOSEPにAID基金から100万ドルを提供した。CDNは中止された1984年のアルトゥーロ・クルスの大統領選挙戦と、1990年の選挙に到るまでの間、政治的反対派を維持する媒体となった。コントラによるテロ行為や経済的破壊と並行した、この政治的プロパガンダ計画は1983年にはCIA資金から来る1400万ドル、そして選挙運動が始まる1988年までの間、CIA、AID、そして(その作戦の最初の年である1984年から)NEDにより少なくとも年間1000万ドルによって助成された。

CIA・NED・AIDによる介入主義のトロイカ体制にとって最も困難を極めた仕事は、政治的反対派を統一することであった。この作業においてNEDは提携基金を通し主要な役割を果たした。それはNDI(民主党)、IRI(共和党)とACILS(AFL-CIO)であり、NEDは主な手段としてCDNを利用した。NDIとIRIは彼らの作戦を指導するため〔首都〕マナグアに事務所を設立した。常に金を主要な報奨として使い、NDIとIRIとACILSは1988年までに統合された反サンディニスタ女性・青年・労働組合戦線を確立した。選挙が6ヵ月後に迫った翌年7月、ようやく彼らは20以上の反対派政党を、14の政党からなる政治連合にすることが出来た。その戦線は国民野党連合〔National Opposition Union〕(Union Nacional Opositora-UNO)と呼ばれた。その形成から1ヵ月後、UNOはビオレタ・チャモロ〔Violeta Chamorro〕を大統領候補に指名した。CIAに資金提供された反対派新聞「ラ・プレンサ」紙の所有者であったチャモロは、実の所ブッシュ政権により既に候補としてあらかじめ選ばれていた。

CDNとUNOの後に来る、3番目の必須の政治的仕組みは、推定上無党派だが、完全に反サンディニスタである広範囲に及ぶ市民戦線が、民衆に選挙登録を奨励し、選挙日に可能な限り高い投票率を確保することであった。この戦線の別の仕事は、不正がなく透明な選挙を確実にする為、登録と選挙過程を特に選挙日において監視することであった。再びCDNが主要な役割を担った。UNO形成1ヵ月後、そして組織された活動の1年以上後の1989年8月、Via Civicaが市民の義務についての「教育」をする団体として立ち上げられた。その義務とは広範な投票を確保し、選挙日の投票状況を監視し、いかなる不正の徴候も糾弾し、調査と票読みを最高選挙審議会の公式の票読みと並行して行う事であった。Via Civicaの活動家は雇われた志願者であり、彼らが所属した団体は、CDNがこの目的のために設立した女性・青年・労働者の緒団体が含まれた。

これら全ての目標を達成する為、1987年にNEDは米コンサルタント会社のDelphi International Groupをニカラグアに呼んだ。NEDは1984年以来この会社を中南米の政治的事業のために雇っており、ニカラグアでDelphiは組織員と宣伝員を提供し、NEDの資金の主要な受領者となる一方で、青年と女性戦線、Via Civica とUNO政治連合を組織するためにCDNを利用するうえで、主な仕事を実行した。Delphiは間違いなく、これらの作戦の重要な米国の関係者であり、その上「ラ・プレンサ」紙と様々なラジオ・テレビ局を通したUNOの選挙宣伝を受け持っていた。

ニカラグアで実行された活動を補足し支援するため、国務省、AID、CIA、NEDは1988年にマイアミ、カラカス、サンノゼに戦略センターを設立した。これらは主にニカラグアの受益者と国外の集会の為に資金を流すことに務めた。1989年2月よりベネズエラの大統領職2期目が始まっていた、カルロス・アンドレス・ペレス〔Carlos Andres Perez〕は、彼の管理下にあったカラカスの2つの基金を通し、これらの計画を助成した。サンノゼにおいては、NEDは既に1984年に中米全土の市民運動を促進するためCenter for Democratic Consultation (Centro para la Asesoria Democratica, CAD)を設立していたが、1987年にニカラグアがその主要な焦点となったのである。CADはマナグアに資金と宣伝用資料を注ぎ、反対派活動家のために養成講習を組織した。1988年に始まった選挙前運動において、CADは、異なる反対派団体間の詳細な計画と連絡を保証するため、中心的な後衛の基盤となった。

1989年の秋に選挙運動が始まった時、ブッシュ新政権はUNOと関連団体を支援するためNEDに900万ドルを割り当てた。この資金は、選挙を財政的に管理する為、50%の資金が最高選挙審議会に行く代わりに、米国がNEDを通し「公に」反対派に資金提供することを許されるという、ジミー・カーターとサンディニスタ指導者との間の奇妙な約束の結果による。それと引き換えに、米国はCIAのさらなる秘密の資金により介入はしないと約束した。即座にCIAはこの約束を密かに破ったのだが、UNOに対するNEDによる「公の」資金提供は始められた。1989年―1990年のニカラグア選挙運動に米国が投資した総額は公式に明らかになってはいないが、2000万ドル以上であると推察されている。

1990年2月に選挙が行われた時、ニカラグアは既に10年間のテロ戦争と、きわめて深刻な経済荒廃を被っていた。状況を悪化させるため、米国は1985年に経済制裁を課しており、停戦が〔条件に〕含まれていたエスキプラス合意に違反し、コントラは解体されていなかった。コントラは手付かずで、絶えず、戦争の再来という脅しをかけていた。選挙運動中、コントラは、自らの存在を人々に思い知らせるため、不断の武装プロパガンダ行動を実行した。さらなる戦争の脅威、人口の大多数に影響を与えた経済的損失、そして米国によるUNO政府に対する莫大な再建援助の約束――これら全ての要因が投票の時に影響した。UNOは、サンディニスタ戦線の42%を上回る54%の票で勝利した。

米国の大規模な介入がなかったとしたら、どの様な選挙結果になったのかと正確に推測することは不可能である。それはともかく、この介入、とりわけUNO連合の成立とVia Civicaにおける反対派活動家の集結が、重大な影響を及ぼしたことは否定できない。同時に、コンサルタント会社Delphi International Groupが果たした主要な役割の重要性を過小評価することはできない。確実な事はNED、AID、CIA、そして米国の個人請負人らの組織網による共同作戦が、ワシントンにおいて大いなる成功として受け入れられたということである。それは将来の外国選挙介入において繰り返されることとなる方策であり、そこにはサンディニスタ戦線が政権に復帰しないことを確かなものにするため、ニカラグアは再びその対象となる。実際に、選挙の1ヵ月後、ブッシュ政権はニカラグア支援のため、議会に3億ドルの承認を求め、その中には、1990年の選挙運動において利用された団体を将来の使用を目的に維持するため、NEDと共に、AIDに対する500万ドルが含まれた。次に、いかにしてこの方策がベネズエラにおいて適用されているかをみていこう。


ドーン・ゲーブル〔Dawn Gable〕によるスペイン語英訳


第2部:政府の計画を偽装する米国民間企業体系の利用

第3部:ベネズエラにおける共和・民主両党基金とのUSAIDの4つの契約書の分析

第1部〜第3部の単一HTMLファイル

Rebelion.org(スペイン語原文)


補足:

著者Philip Ageeの名前はフィリップ・エイジー以外に、フィリップ・アギー、フィリップ・アジー、フィリップ・アジェ等と訳されている。



posted by Agrotous at 18:37 | TrackBack(1) | ベネズエラ
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