2007年10月20日

ベネズエラの躍動的な政治文化
〔An Engaged Political Culture in Venezuela:Original Article in English/ZNet原文

シンシア・ピーターズ〔Cynthia Peters〕;2007年9月14日

アンデス山脈を上下降するでこぼこした山道の脇にある小さな売店に、濃く甘いエスプレッソを飲むため私達は立ち寄った。それは小さな二口サイズのカップで出てきて、ちょうど良い量のカフェインだった。危険なのと同時に感覚を失わせる程繰り返し現れる見通しの悪い曲がり角で注意を怠らないようにするために。そこで出会った、同じくコーヒーを飲んで休憩していた二人のベネズエラ人が話しかけてきた。近くの村に飲み水を運ぶ彼らの仕事について、チャベス政権に関する彼らの意見、そしてどの地域共同体で政府がどんな計画を実行するのかを取り決める草の根の顧問委員会(「consejos comunales〔地域住民委員会〕」)について、私達は数分間和気あいあいと会話をした。

「社会主義に向けたチャベスの努力はどうなんです?」と私は彼らに訊ねた。

「社会主義は分かち合うことです」と一人が答えた。「私が三枚シャツを持っていて、あなたが一枚も持っていなかったら、私は少なくとも一枚をあなたにあげるべきです。」

ベネズエラの標準でいうと、それはとりわけ注目に値する会話ではなかった。私達はこの様な会話を多くしてきた――その中のいくつかはこの国の革命に向けた変革にとても好意的で、その他はそれ程でもなかった。とはいえ、社会で意義のある役割を担うことができない状況を、あまりにも多くの市民がどうする事もできないと感じている米国の政治文化に慣れきった者にとって、その会話は確かに注目に値した。

米国の人達が彼らの地域共同体を気にかけておらず、所有しているものを分かち合う方法を思い浮かべないということではない。義理の息子が〔イラクの〕ファルージャにいて、ジョージ・ブッシュの写真を冷蔵庫に飾っている、保守的で熱心な信者のカロライナに住む私の叔父は、彼の家の近くの主要道路一帯を個人的に自らの義務として受け入れている。数日に一度、彼は一定の距離を歩きながらゴミを拾っている。「ほとんどはタバコの吸殻だよ」と彼は言い、その絶えることのない投げ捨てを彼は信じられないでいる。けれども彼は気にかけていない。彼は彼の役目を果たしたいと思っている。彼は喜んで役目を果たしている。「何か他に考えがあるのかい?」と彼は私に訊いた。「社会を変えるために他に何かできる事があると思ってるんだろう――特に企業らが政治家たちを意のままにしている時には?」タバコの吸殻を拾い集めることは正確にはやりがいのある仕事ではないのだが、別の政党の別の候補の先の放送用の端的な言葉に全くそっくりな、別の候補の更にまた別の言葉の分析を試みることよりは昏睡状態を誘発させるものではないであろう!

要するにこれが米国の政治文化である。主要道路一帯からほんのわずかなゴミを取り除くほうが、政治に参加するよりもやりがいを感じるのである。ベネズエラではそうではない。「チャベスについてひとつ言えることは、皆が政治について考えるように仕向けたことです」とラモンという名の中産階級のベネズエラ人は言った。

「だけど私は彼を好きではありません」と彼は付け加えた。「旧体制を追いやりたかったから最初は彼に投票しましたが、今彼はやり過ぎです。彼は中産階級を怖がらせ追い払っています。彼は私達の財産を取り上げようとしています。私達は所有しているもののために精一杯働いてきたのです。」

ハエと蚊の防虫剤を配給する事業を運営しているこの男性に私達が出会ったのは、海辺の町エル・プラヨン〔ポルトゥゲサ州〕のレストランでだった。そこは休暇の最後の週を楽しむベネズエラ人観光客で溢れていた。一時間に亘る会話で彼は、彼が原理上は社会主義に賛成することを教えてくれた。チャベスが〔ジョージ・〕ブッシュの政策に反対する強固な国際的表明者になっていることに彼は感謝している。とはいえ彼が独裁者になっていると彼は感じている。彼の大臣らはロレックスの腕時計を着け、高級車を乗り回している。それに加えて、貧しいもの達が今よりも精を出して働けば、中産階級と同一の特権全てを彼らも享受できる。

客観的にいうと、貧しい人が三枚あるシャツの内一枚を手放すことは、裕福な人がそれよりも遥かに多い経済的備えの一部を手放すよりも容易ではないはずである。とはいえ不平等にも手にしている快適さを正当化できるほど裕福な人は精を出して働いてきたのである。運に伴う不安定さを認めるよりもむしろ、所有しているものは彼が受けるに足ると感じさせる複雑な価値体系を彼は組み立てるであろう。

おそらくこれが、八月の最後の週に、彼女達の父親と私と共にベネズエラを旅した私の二人の娘にとって最も重要な教訓だったであろう。つまり、本当に乏しい快適さすらも持ち合わせない多くの人々が世界にいる一方で、彼女達を快適にさせているのは純然たる馬鹿げた運である、ということ。彼女達は所得格差の統計に馴染んだ。彼女達はこの惑星の圧倒的多数が一日一ドルや二ドルで生活していることを以前から聞いていた。とはいえ、泥やレンガ、そして主要道路の横からかき集めた広告版の断片で建てられた、延々と続く貧民街を彼女達は見たことがなかった。物事全てがあるべき通りであると言う何らかの理念に屈服せずに、こういった無慈悲な事実を記憶に留めておくことは大変なことである

「中産階級がこれほど疎外されていることは残念なことです」と、メリダ州で私が出会ったアドリアナという名の露天商の物売りは言った。「この〔変革の〕過程から彼らが得ることは沢山あります。というのも、彼らには教養があり、自らの考えを述べ、聞き届けられることに慣れているからです。彼らは彼らの考えを『consejos comunales〔地域住民委員会〕』に持ち込むことができます。」

「Consejos comunales」は「共同社会のアドバイス訳注1」と訳すことができる。アドリアナは私にこの様に説明した。「以前は、政府が自らの政策を持って私達の地域共同体にやって来ました。例えば、彼らはやって来て道を直したりしました。その地域共同体のより大きな問題は、飲み水を入手することだったとしても、そのことを政府に伝える術がありませんでした。地域住民委員会によって、私達は団結し、地域レベルの優先事項を決定し、そしてその優先事項を政府に知らせる方法を手にしたのです。」

私達がその国に滞在した両日曜日に、午後を通して放送されるチャベスのラジオ番組をつけた。彼はそれを彼の政策に弾みをつけることに利用しているようである。また番組中に彼は自らがある程度、意欲を起こさせる話し手であり、いくぶん伝道師、そして半ば大衆の教育者であることを明らかにしている。彼の見解をどの様に考えようとも、彼が明晰で精力的であり、学ぶ意欲に溢れていて、人々と誠実に交流するのに十分な自信を持っている、という印象を彼は人に与える。その番組を整える裏方の人達が沢山いるのは確実であろうが、洗練されていない場面が多々あり、そこには「操り師」の明白な不在があった。米国の殆どの政治家とは異なり、チャベスは原稿抜きで公衆の面前に立つ。

番組のある場面で、チャベスは社会主義の仕組みを説明するために、漁師たちと水産加工工場の労働者らとの長いインタビューを用いた。彼の手法は、彼らの仕事のどの側面が社会主義的であるのかを漁師に語らせるものであった。彼は時に忍耐強い教師のような印象を与え、時には伝道師のような調子に乗りながら、彼らの発言を社会主義の趣旨に関する彼自身の綿密な考えに巧みにまとめ上げた。

別の区切りでは、彼はトウモロコシについて語ることに時間を割いた。彼はトウモロコシの栄養分や、西暦紀元前数百年以来、中南米において蒔かれてきた事実に関する詩的な話をし、この主要作物の種蒔きや収穫の上での人類の役割に言及した。彼は農民、消費者やトウモロコシ加工工場の労働者にインタビューした。彼が知ろうとしたことは、何処から彼らが種子を入手したのか、どれだけの数の品種を彼らが蒔いたのか、そして数十年に亘る経験で彼らが何を学んできたのか、である。彼らの知識を彼の知識に組み入れることに彼は本当に関心があるように思われた。それは人間らしい会話に見られる共通の所産である――二人の人あるいは集団が見解を取り交わし、それ以前よりも更に知識を得て、より意識的になる、ということは。しかし、一人の大統領と一人のトウモロコシ農民の間では、この様なやり取りは今まで聞いたことがない(少なくとも私の経験では)。

なぜある工場が80%の稼動率でしか操業していないのかについて、彼は経営者と十分に語った。しかも彼は安易な答えを受け入れなかった。その内、彼が鉛筆と紙を取り出しているのが分かった。彼はその工場の生産量をトンで算定し、パーセンテージを計算しており、生産能力を増大させた時の影響に関する質問をしていた――多くの人々が飢えている国においては取るに足らない質問ではない。

ラジオとしては、それは素晴らしいものではなかった。(紙が整頓されるのが聞こえ、計算が行われているのを想像できた。)とはいえ、政治文化を理解しようとする私のような北米人にとって、それはとても素晴らしかった。ひとりの大統領が一見したところ即興の状況におり、工場経営者に実際に即座に判断するよう促していた――国の最も特権を持たない人々にとって重要な事柄に関して。

彼は更に、選手権に出場する少年野球チームを番組に登場させた。彼はそれぞれの子供にその子が就くポジションについて話をし、最善を尽くすよう励ました。別のシーンで、トウモロコシを植える方法を彼の祖母から学んだ時の思い出を彼は語った。「ほら、私の手は今もそのやり方を覚えています」と彼は、彼の祖母の技術を実演しながら目前の観衆に語った。今回も、米国の標準では良いラジオではないのだが、彼は放送時間を埋めることには頓着がないようであった。多角的なレベルで人々と意思の疎通をすることを彼が気にかけている程には。

この様な形の意思疎通には、捉えがたいが重要な特質がある。つまり、それには聞くことが伴うということである。チャベスは彼の国に望むことに関する明確な考えを持っている。その一方で彼の理想には大衆の参加が含まれており、このラジオ番組における彼の姿勢は、「指導者達」と「国民」の間の力学のひな形を作っている。大衆がその過程の障害ではなく、その過程の一部であるとそれは想定している。

確かに、父親的な聞き方というものがある。聞き手が好ましい態度を取り、しきりにうなずき、その後にあらかじめ予定していた通りに話を続ける、というものである。またチャベスは正確には対抗者や論客を彼の番組に招き入れなかった。そういったやり取りを彼がどのように対処したかを聞くことは興味深かったであろうが、毎日のように主流メディアが反チャベスの見出しやパロディ、そして攻撃を大々的に扱っていることを考慮すると、必ずしもこの国に反対意見が欠如しているということではない。

いかなる指導者をも理想化することには危険が伴う。指導者は汚職に陥る傾向がある。その一方である程度の観点を保つこともまた重要である。社会主義を唱導する一方で高価な腕時計や高級車を誇示することは(ラモンが言ったことが本当であると想定して)偽善的である。とはいえ、それは米国で見受けられるものとは完全に異なる規模の汚職である。ここ〔米国〕には、イラクにおける民主主義のために戦っていると主張する大統領がいる。実際には彼はその国を違法に占領しており、それと同時に(その土地を破壊している)軍需産業や(それを再建することで支払いを受ける)建設産業を富ませている。これは理解するのがあまりにも困難な規模の偽善である(それはロレックスとは異なる。皮肉にもロレックスは理解できるという理由で、より大きな憤怒を引き起こす)。

一方で、米国に私達が帰国してから聞いたブッシュの発言はこうである。「我々はイラクでガツンとやっている〔We're kicking ass in Iraq〕」とオーストラリアの副首相に彼が語った言葉としてボストン・グローブ紙に引用された。それは見え透いた嘘なだけではなく、この戦争で人生を破壊されたイラクの人々や多くのアメリカ人の徹底的な悲劇の前には聞き捨てならないマッチョな態度である。

旅行の果てにマイアミ〔フロリダ州〕に戻り、ベネズエラで学んだ政治参加の生き生きとした文化をどれだけ懐かしがるであろうかと私達は語り合った。放送用の端的な言葉を避け、重要な事柄に関して深く話をし、耳を貸していた大統領のことを私達は懐かしく思うであろう。道端のコーヒーの売店での労働者たちとの思慮深い政治に関する議論を私達は懐かしがるであろう。

その時まるで合図があったかのように、私の十一歳の娘が米国内で共同体を作り、意見を共有する重要な方法に気付いた。彼女はスターバックスのカップを指差した。そこには、人生で最も重要なことは「私は願う」と言うのを止め、「私はそうする」と言い始めることである、というデビッド・カッパーフィールドの引用が印刷されていた。

米国に戻り、そこには酔っ払った寮の学生のように振舞う大統領がおり、持ち帰り用のコーヒー・カップの横から他人の力を借りないでやれと指図する指令があり、そしてへんぴなノース・カロライナの主要道路の路肩で自らの存在を示そうとしている叔父がいるそんな中、ベネズエラには別の模範があることを私達は忘れることはない。


訳注:

1.スペイン語の「consejo」という語には「アドバイス」と「委員会」の両方の意味がある。

posted by Agrotous at 22:01 | TrackBack(0) | ベネズエラ
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