2007年10月13日

至るところにある反乱の顔
〔The face of rebellion everywhere:Original Article in English/ZNet原文

マヒール・アリ〔Mahir Ali〕;2007年10月9日

バジェグランデと呼ばれるボリビアの小さな町で、そこの常駐司祭の幾分かの狼狽にもかかわらず、地元のカトリック教徒らは神にのみならず、聖エルネストという人物にも一般的に祈りを捧げている。その名が示しているのは遥か昔の崇敬された宗教的人物ではなく、20世紀後半の革命の先駆者となった熱心な無神論者である。

バジェグランデの様な類の尊敬を〔エルネスト・〕チェ・ゲバラが面白がったか、あるいは不快に思ったかは何とも言い難い。「寝る時も起きた時も」と27歳の地元住民は言う、「私はまず神に祈り、その後チェに祈る――そうすると全ては順調です。ここでのチェの存在は良い力になっています。」多くの住宅で、ゲバラの肖像がイエス・キリストや聖母マリアの肖像の横に掲げられている。別のものは、彼を偲んで作られた祭壇が添えつけられている。そして、チェが便宜を図ったと信じられている奇跡に関する物語が絶えることはない。

あるバジェグランデの病院の洗濯場は巡礼地に変えられた。そこは、40年前の火曜日にゲバラの死体が晒された場所である。米国に訓練されたボリビアの軍隊が近隣のイゲラ村で彼を即決処刑した後のことである。主として地元の支援の欠如によって、反乱を誘発しようとした彼の試みが失敗したその地域で、今彼が上述のように尊敬されているという事実には物凄い皮肉がある。

ゲバラの短い人生――息を引き取った時彼はまだ40歳になっていなかった――の最終章は途方もなく悲劇的であった。キューバのバティスタ独裁を打倒した大成功のゲリラ戦争中に吸収された教訓を、ボリビアで繰り返すことができなかった理由は多々ある。それらの要因の中には、キューバにおける軍事行動はフィデル・カストロの指導の下に行われた、というものがある。彼は彼の祖国で有名な人物であり、彼の部隊はひとつの顕著な例を除いて完全にキューバ人によって構成されていた。主にキューバ人戦士で構成された部隊を率いたアルゼンチン人の医師というものは、ボリビアで同様の影響を生み出す見込みはまずなかった。

チェ自身、模範的な国際主義者であり、彼にとって国境や国旗は殆ど取るに足らない事柄であった。キューバを離れる決意をした後、彼が着手した最初の任務はコンゴ共和国におけるものであり、その地で彼が望んだことは、パトリス・ルムンバの遺産を復興させる意図を持っていると言われていた勢力を助けすることであった。エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセルはチェにターザンの様な人物として見られる危険について警告したのだが、結局はそれは彼が抱えた問題の最も取るに足らないものになった。つまり、彼をアフリカから追い払ったものは、地元の指導部、特にローラン・カビラ〔Laurent Kabila:後のコンゴ民主共和国大統領(1997年−2001年)〕に対する彼の失望であった。

その時点までには、キューバでの有用な職務に復帰することは、ゲバラの考えでは既に手遅れであった。彼は戻りはしたのだが、それは内密であり、次の任務の準備のためであった。チェは行く行くは彼の精力をアルゼンチンにおける社会主義の確立に捧げることを望んでいた。ボリビアへの遠征が地元の共産党によって裏切られるとは露知らず、彼はその国を一時的な任務として受け入れた。その党は、ことによるとソ連政府の指示により、援助の約束を果たさなかった。

中南米や他の地域の正統派の共産主義者らは、ゲバラを無謀な野心家であると見なしていたのであり、彼の見解――ふさわしい状況が生じるのを待つ代わりに、マルクス主義者は革命的な諸条件を引き起こすことに貢献する義務がある――に対し共感を殆ど示さなかった。アルジェリアにおける1965年のある会議でのソビエトの貿易政策に対する辛辣な批判も、党の忠実な支持者らに彼を慕わせることは殆どなかった。かなりの者が、ボリビアでの彼の死を、波乱万丈の生涯の都合の良い結末であるとみなした。

とはいえ、その時までには、ゲバラが急進的変化の偶像的な先駆者になることを阻止するには時既に遅しであった。その過程を計り知れないほどに助けた肖像は、1960年3月5日にカストロの公認写真家アルベルト・コルダによって撮影された。それは、弾薬を積んだフランスの貨物船に搭乗中に爆発で死亡した80人のキューバ人の葬儀の最中であった。コルダはキューバ国立銀行総裁が遠くを見やっていることに気付いた。彼のりりしい容貌が表していたのは、怒り、悲しみ、そして断固とした決意が伴ったもっともな憤りであった。

その写真は数年もの間、公にはならなかった。それにもかかわらず1967年までには、それはヨーロッパに到達していた。その普及に責任があると噂される人達には、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが含まれている。彼はゲバラを「彼の時代で最も完璧な人物」と評した。チェの殉教後に至るところに存在するようになったお馴染みのツートンカラーの画像へとそれを変えたのは、ジム・フィッツパトリックという名のアイルランド出身の若いグラフィック・アーティストであった。

1968年の西欧の若者の間の反乱の最中、この英雄的ゲリラの肖像はほぼ全てのデモで掲げられた。程無くそれは抵抗の普遍的な象徴に変身し、パレスチナからペルーにまで見られるようになった。そうとはいえ、当時その魅力がこれ程までに不屈なものになると想像する者は殆どいなかったであろう。

チェ・ゲバラの顔は、その革命的指導者が破壊することを追求した資本主義商業の勢力そのものによって採用され、ある意味では、ファッションを通した意思表示になった。それにもかかわらずこの像は――アンディ・ウォーホールによって手を加えられたり、ウオッカや下着産業によって借用されたりした時ですら――反抗の底流を、現状を容認することの拒絶を潜在意識的に反映していた。

社会に課せられた多岐にわたる悪に対抗した容赦ない闘士としての彼の名声を再び是認するためには、彼が捕らわれてきたTシャツからチェを解放せねばならない、と近年提唱されてきている。ゲバラの絵がついたTシャツや星の付いたベレー帽を身に着けるかなりの割合の者達が、彼が戦ったものを漠然としか意識していない、というのが実状であろう。他方で忘れてはならないことは、チェの理想に忠誠を誓うこの方法が、ベネズエラとボリビアの両大統領、ウゴ・チャベスやエボ・モラレスのようなもの達によってすらも支持されている、ということである。

その通り、ボリビアである。ゲバラが究極の犠牲を捧げた土地は今、コカの葉でできたコルダの肖像写真で飾られた大統領宮殿を誇っている訳注1。チャベスとモラレスが民主的な方法で権力を獲得したとはいえ、ボリビアとベネズエラ・ボリバル共和国は、両国共ある意味でチェの遺産の重要な一部になっている。このようにして21世紀においてチェの精神は継承されているのである。

イデオロギー的な敵対者はゲバラをウサーマ・ビン=ラーディンと、あるいはイスラム教の熱狂によって奮い立たされた自爆犯らと同一視させようと熱を上げている。とはいえその様な比較は、チェが無実の者達の命を奪うという考えを根本的にひどく嫌っていたという理由のみならず、懸命に働き搾取をしない社会という彼の理想主義的理念と、シャリーア法で統治されたカリフ制の有害な目標の間には類似点がないゆえに、厭わしいものである。

おおよそ30年前、アンドリュー・シンクレアによるチェの描写――自らの「人生と死を、神からの助けを得ずに、最も貧しいもの達に」捧げた人物――に筆者は感銘を受けた。その後1964年に、ある手紙に対するゲバラの返答に出会った。差出人はマリア・ロサリオ・ゲバラ〔Maria Rosario Guevara〕という名のスペイン人女性で、彼らが親類かどうか疑問に思っていた。「貴女と私がとても近い親戚であるとは思いません」と彼は返答した、「とはいえ、世界で不正が行われる度に、貴女が憤りに身を震わせるような人であれば、私達は同志であり、その方がより重要なことです。」訳注2

信奉者からも無信仰者からも一様に鳴り響く同感〔アーメン〕に値する感情がそこにはある。


訳注:

1.このコカの葉で作られたゲバラの肖像の前に立つエボ・モラレス大統領の写真は以下へ。

http://www.spiegel.de/international/spiegel/0,1518,grossbild-618906-434272,00.html

http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4878466.stm

2.このゲバラの返答はウェブ上にスペイン語及び英語で公開されている。

posted by Agrotous at 21:21 | TrackBack(0) | 中南米全般
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