2007年04月14日

バリオからの展望
都市部大衆運動の表れとしてのウゴ・チャベス
〔A View from the Barrios
Hugo Chávez as an Expression of Urban Popular Movements:Original Article in English/ZNet原文

スジャータ・フェルナンデス〔Sujatha Fernandes〕;LASA Forum;2007年4月7日

LASA Forum, Winter 2007〔Vol 28, Issue 1, pp 17 – 19〕に出版された

ベネズエラのウゴ・チャベス大統領の急進的な軌跡は、中南米専門家ら、民主化の権威、政策立案者や活動家の間で議論を呼ぶ話題であり続けた。ある者たちは、法の支配に関するチャベスによる軽視及び政党体制の崩壊であると彼らがみなす事柄を嘆く。彼らは彼を、伝統的な社会制度を迂回し大衆と直結した繋がりを創出した他の新大衆主義〔neopopulist〕の指導者らと比較する。他の者は、伝統的な社会制度の秩序の維持よりも、貧困とゆるぎない不平等の歴史的な問題に取り組むという彼のより重大な問題を擁護する

ベネズエラにおける1980年代の債務危機の後、及びそれに続く民営化と新自由主義構造改革の波の後、貧困は劇的に拡大した。貧困線以下で暮らす人口の割合は1984年の36パーセントから1995年には66パーセントになった。この莫大な相違を考慮すると、チャベスのそれの様な急進的な政策は、社会的支出を拡大させ、富を再分配するために正当化され得る。

けれどもチャベスの支持者らは、彼を誹謗する者達と同様に、チャベス自身の手に多大な権限を委ねているように思われる。政策を組み立て、計画を立案し、まとまりのない大衆に方向性を与えることに責任がある唯一の人物として。ベネズエラ革命の政策議題を形作る上で、どちらの側も大衆社会部門の役割に注意を向けていない。チャベスについての私自身の擁護は、彼の適切な政策や計画に対する承認のみならず、大衆の意識が戦い勝ち取った一定の領域を彼が象徴している、という私の信念から来ている。

2004年から2007年の間、野外研究をしながら、カラカスのある一般的なバリオ〔居住地〕で生活した9ヶ月の間に、私は草の根の社会運動の繁栄を目の当たりにした。地域共同体ラジオの集合体から、アフリカ系ベネズエラ人の組合〔cofradías〕が地元の祝祭、保健委員会や壁画団体を組織編制していた。時事解説者らがこれらの多様な集団を「チャベス派〔Chavistas〕」あるいは「チャビスタ運動」として一緒くたにする一方で、バリオの多くの地域共同体団体や大衆指導者らはチャベス派であると自ら名乗ることはなかった。むしろ彼らには、彼らのバリオや区画(バリオ・スクレ、バリオ・マリン、ベインテイトレスデエネロ、サン・アグスティン、ペタレ)にある独自性の異なる源泉を持っており、それらは対案となる社会・地域共同体の組織網(コオルディナドラ・シモン・ボリバル、カジャポ〔Cayapo 〕、ラディオ・ネグロ・プリメロ〔Radio Negro Primero〕、シウダデラ・デ・カティア〔Ciudadela de Catia〕)の基礎を形成している。

これらの大衆運動はチャベスに先行するはっきりとした系譜を主張している。そこに含まれるのは、1950年代の軍事政権に反した内密な諸運動、1960年代の過渡期後のゲリラ闘争、1970年代の都市部への人口移動に反対する運動や労働者司祭によって率いられたハンガーストライキ、そして1980年代と1990年代の文化的実践主義と都市委員会がある。それと同時に、都市部の運動は、30年に亘る再分配の福祉モデルによって助長された国家との恩顧主義的な関係の変化に関与した。〔そのモデル〕はチャベスの下再構築された。政府に関する現代の都市部門の手法に含まれるのは、地域的闘争の歴史や長い年月をかけて発展した相互依存を基礎に置いた自治の諸要素である。

社会と国家の間の関係は相互関係的である。チャベスの強力な存在が大衆組織編成に勢いと団結を与えるのと同様に、バリオにおいて形成された独創的な運動は公式政策の形態や内容を決定することに手を貸している。チャベスを上から統治する独立した人物である、あるいは大衆運動が自律的な場から生じている、という見方は、チャベスの台頭と政権維持を可能にした相互依存を否定することになる。それと同時に大衆部門は、彼らの地域共同体の利益を守り、彼らの計画を維持するために、チャベス政権、あるいはその呼び名である「官僚主義〔oficialismo〕」から独立した道筋の計画を立てる必要性を理解した。

ベネズエラ及びそれ以前のキューバに関する研究において、特に中南米全域において社会運動が国家権力に対する権利を主張し始めたなか、現代社会における市民・国家間の相互作用を考察する枠組みを展開することを私は追及してきた。1990年代に出現した社会運動の数々、例えばメキシコにおける抑圧的な国家機構に対する抵抗を明確にしたサパティスタと比べ、新しい千年期の穏健及び急進的左派諸政権の下で盛んな社会運動は、新しい国家・社会間の力学に出くわしている。重要な諸運動と国家の間のその相互連結や協調、協力する項目に目を向けることを私は提案する。

同時に、重要な社会諸運動が、特に社会革命を発展させる状況において、彼ら自身のための自治的な場を築くことを追求していることを特筆したい。キューバ革命、あるいはニカラグアのサンディニスタ革命の初期に、米国の介入の脅威又は現実が、よりレーニン主義の前衛政党というモデルと相俟って、草の根運動の自治能力を縮小させた。それに反して、現在のベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイやボリビアの社会運動は国家との関係において、より大規模な独立を勝ち取ってきた。彼らは地域における〔政党や国家等と〕繋がりのない地元の人民会議において意思決定に従事し、彼らは特定の政策の駆け引きに対する彼らの不承認を表明するべく抗議を実施し、彼らは地域共同体のために地域共同体によって製作された彼ら自身の大衆メディアの形態を持っている。

バリオにおける地域共同体団体は当初からチャベスと密接に働いてきているのだが、独立した組織化のための運動は2004年の〔チャベス大統領〕罷免国民投票の最中に最も明らかとなった。2003年11月、2ヶ月に亘るゼネストとクーデター未遂を含めたチャベスを政権から排除する反政府派による一連の試みに続き、反政府派はチャベスが公職から解任されるべきか否かを決める国民投票のために、1999年の憲法によって規定された署名を集めた。罷免国民投票に必要な署名の総数は人口の20パーセント、つまり2千4百万人分であった。反政府派は3千万の署名を提出したのだが、非常に長い検査の後、全国選挙評議会(CNE)はその署名のうち1千9百万のみが有効であるという決定を下した。5月に反政府派は排除された署名の正当性を立証し、必要な署名に達することができるかを確かめるために5日間が与えられた。国民投票署名請願を見張るべく、チャベスはアヤクチョ支援組織〔Comando Ayacucho〕と呼ばれる委員会において、闘士の一団を彼の政党である第五共和国党から任命した。

その当時、バリオで友人達や人々からおびただしい不正の事例を私は耳にした。彼らは反政府派が死亡した人々や罷免国民投票を支持していなかった人の名前を違法に使ったと言い、ある者たちは彼らの名前の利用に異議を唱えるために出かけていった。しかし多くの場合、アヤクチョ支援組織は不正の事例に異論を唱えるためにバリオから人々を動員することに失敗した。そして2千4百万の署名という目標を反政府派が達成することはない、という度重なる公表を彼らはした。かくして6月初旬にCNEが、反政府派が彼らの目標に達し、国民投票が2004年8月に行われる、と実際に発表したとき、バリオの人々は衝撃を受け、アヤクチョ支援組織によって裏切られたと感じた。6月3日の朝、 私はベインテイトレスデエネロ区でインタビューを行っていた。ある活動家達はことによるとチャベスが反政府派と裏取引をしたのではないか、といぶかしがった。その他の者はアヤクチョ支援組織が単に無能であったのだと言った。ラ・ベガ、ベインテイトレスデエネロや他のバリオにおける一連の地域集会で、地域共同体の指導者らは自主編成の必要性を強調し、政府や公式に任命された委員会が「彼らに代わって」組織編制することをバリオ居住者らが当てにすることはできない、と述べた。

国民投票に至るまでの間、チャベスを公職に留めるための「No〔罷免反対〕」のための組織的活動を支持するため大衆部門を組織編制する上で、地元の組織網や活動家たちが重要な役割を担った。チャベスはアヤクチョ支援組織をマイサンタ全国選挙対策本部〔Comando Maisanta〕及び、選挙対策支部〔Unidades de Batallas Electorales〕(UBE)として知られる垂直に編成された地方の構成単位から成る組織に取って代えた。地域共同体の諸団体はUBEと協力し、時にはそれに組み入りさえしたのだが、殆どの場合、それらは国民投票に勝利するための戦術上及び一時的な協力でしかなかった。「No」運動の背後にあった原動力は、組織編制された地域共同体活動家たちにあった。彼らは国民投票で投票するよう有権者に登録させ、動員する精力的な運動に着手した。地域共同体の組織者らは、全ての地区に有権者登録センターを設置し、地元の活動家のチームが24時間体制で配属した。バリオを本拠地としたラジオ・テレビ局や新聞が、国民投票の重大性を説明し、チャベスに票を入れるよう人々を助長するために時間や紙面を割いた。国民投票の日が近づくとともに、ラディオ・ネグロ・プリメロのような中央に位置した複数のラジオ局がニュース・センターの役割を担い、情報を収集し他のラジオ局に流した。チャベスの最終的な勝利において決定的な要因であったのは、チャベスのカリスマや彼の助成された社会計画、あるいは反政府派の不適切な言動ではなく、むしろ地元のバリオ組織編成が担った役割であった。

2004年8月の国民投票におけるチャベスの成功に続き、社会運動はより率直に主張することを追及した。都市部の活動家達は地方及び先住民族諸団体と連帯し、率先して首都で政府政策のいくつかの側面に反対する街頭抗議の組織に着手した。2005年3月と2006年1月に、石油に富んだスリア州における石炭抽出を拡大させるチャベス政権の計画に抗議するべく、自由・代替・地域共同体メディア全国協会〔Asociación Nacional de Medios Comunitarios Libres y Alternativos〕(ANMCLA)の活動家達と先住民諸団体が結集した。抗議者らはその計画が、乏しい給水に頼っているその地域の大部分が先住民族の人口の健康に対する危険、そして水の汚染を増大させることを指摘した。抗議者達は政権の炭鉱計画に異議申し立てするために、チャベス政権自体の言葉遣いやシンボルを採用した。抗議者達はこれまで様々な仕方でチャベスを支持してきたということを伝える手段として、彼らの「石炭にNo」のプラカードに罷免国民投票時の親チャベス運動の「No」のシンボルを利用した。今彼〔チャベス〕が彼らの懸念に耳を傾けなければならない、と。数々の標識はチャベスを「仲間〔compañero〕」と呼んでいたのだが、それと同時に抗議者達は乏しい天然資源を利用する開発のモデルに対して非常に批判的であった。

都市部の社会運動は環境汚染に反対する闘争に長きに亘って携わってきており、1981年にはラ・ベガにおけるセメント工場のような有害な産業計画を中止させてきた。また2005年から2006年の石炭抗議の最中には都市部の活動家らは先住民団体との連帯を表明した。この抗議の結果、チャベス政権は採鉱の汚染を及ぼす影響を立証した委員会を設立し、採炭を3万トンに拡大する計画を延期させたのだが、それをゼロにせよという抗議者らの要求は満たさなかった。

チャベス時代における大衆階級の経験との関わりは、国外で成される支配的な評価とは異なる現実を明らかにする。米国国務省やある学者達は、チャベス政権を悪者に見せようと試みてきた。それは専制的な政権であり、その地域における安全に対する脅威であると烙印を押して。ドナルド・ラムズフェルド元国防長官はチャベスをアドルフ・ヒットラーと比較し、チャベス政権を選挙で選ばれた独裁政権であると呼んだ。それにもかかわらず、ベネズエラにおける反政府派はマスメディアに対する顕著な度合いの独占を保持しており、全ての部門が街頭で抗議し政府を非難する権利を有している。

そのうえ、かつては権利を奪われ取り残されていた社会の部門による活発な組織編制や積極的参加が現代のベネズエラを、成功した民主主義体制であるとしばしば賞賛される国々よりもより参加型で包括的にしている。ウゴ・チャベスの歴史的な大統領職の基底にあるものは、進展中で、時に異議が唱えられ、また常に交渉を伴う国家と社会の間の共力作用なのである。

スジャータ・フェルナンデス(sujatha.fernandes@qc.cuny.edu)



posted by Agrotous at 21:19 | TrackBack(0) | ベネズエラ
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