2007年03月10日

第四次世界大戦はベネズエラで始まった
カラカソの遺産
〔The Fourth World War Started in Venezuela
The Legacy of Caracazo:Original Article in English/VenezuelAnalysis原文

ジョージ・シカリエッリョ=マエル〔George Ciccariello-Maher〕CounterPunch;2007年3月5日

新自由主義に対する反乱の発端を捜し求める者は、1998年のシアトル(米国を中心にした活動家らはこの運動がシアトルで始まったと主張することで悪名高い)よりも以前、それに先立つ同年ロンドンのJ18〔6月18日〕デモ抗議よりも以前にさかのぼる必要がある。1994年1月1日のサパティスタ運動の公共への出現よりも前を回顧する必要がある。以上全ての出来事の前に、カラカソ〔カラカス暴動〕があった。勇壮な闘争の18周年記念に、この単独で重要だが頻繁に見過ごされる出来事を回想することは価値がある。それをフェルナンド・コロニル〔Fernando Coronil〕はこう描写した。「中南米の歴史で、緊縮財政に抵抗した、最大で最も暴力的に鎮圧された暴動である」と。

おとり戦略

カルロス・アンドレス・ペレスは1989年2月2日に(連続ではない)二期目に就任した。それは著しく反新自由主義的な選挙運動の後であり、その選挙中彼はIMF〔国際通貨基金〕を「人々のみを抹消する爆弾」であるとして酷評した。それ以来「おとり戦略〔bait-and-switch 〕」改革の悪名高い例として知られるようになった改革で、ペレスは当時考案されたばかりのワシントン・コンセンサスの文字通りの履行に着手した。この大転換の迅速さは、ペレスの新自由主義経済政策パッケージ(「paquetazo 」と呼ばれた)が、国際金融機関を非難し債務国間の連帯を唱導した就任演説から2週間経つか経たないうちに発表された事実からも明白である。2月16日の演説でペレスは国は覚悟しなければならないと警告した。「大転換」のために。

ベネズエラのエリートが新自由主義を数年間ばくぜんと考慮していたとはいえ、またハイメ・ルシンチ〔Jaime Lusinchi 〕大統領が1984年に異端の新自由主義経済政策パッケージを成立させていたとはいえ、ペレスの一括法案は、その正統性のため注目に値する。ベネズエラの多くの主要都市が広範囲な暴動と略奪に悩まされている中、2月28日にIMFと調印された関心表明書〔LOI〕において、ペレスの計画の基本方針が次のように提示された。政府支出及び俸給は制限される、為替レートと金利は規制解除される(それによって実質的に農夫のための金利助成であったものが排除される)、価格統制は緩和される、助成は縮小される、売上税が開始される、国家により供給される商品やサービス(石油を含む)の価格は緩和される、関税は排除され輸入は緩和される、ベネズエラにおける外資取引は助長されることとなる。

要するに、この計画は急騰する価格と通貨引き下げを前にした緩慢な収入という強力なカクテルを意味した。予測されるとおり、1989年に貧困は頂点に達した。〔貧困率は〕世帯の44%(5年間に絶対数で二倍になった数値)、極貧層は人口の20%になった。「不吉な金曜日」として今もなお記憶されている1983年の〔通貨〕ボリーバルの引き下げ以来、物価高騰が少なくとも不安の種であったとはいえ、彼らの土地の下に埋蔵されているものに対する共通の権利をベネズエラ人が持っているという一般的な(また議論の余地なく正確な)認識が、2月27日の早朝、暴動の怒れる炎を煽ったのであった。

27F-1989

1989年2月27日は月曜であり、ペレスの石油価格の自由化は週末に施行されており、その第一段階は消費者ガソリンの価格を即座に100%増大することであった。乗客に30%の増加のみを課すよう全国運輸連盟に説得することで、政府は小規模運送者らに増加の大部分の負担を強要しようと試みたのだが、多くのより小規模な連合体や個人はその合意を尊重することを拒否した。一夜にしてガソリンの経費が二倍になったのだから、彼らを非難することはほとんどできないであろう。

抗議はカラカスへの非公式労働者の朝早くの通勤の間に始まった。乗車料金が二倍になったことを知り、多数の人々が支払いを拒絶した。午前6時よりも前に国全域の複数の郊外や都市から抵抗、暴動やバスの放火が報告された。〔ミランダ州〕グアレナスの東部郊外(早くも7時30分に略奪が報告された地域)におけるデモがその地域における広範囲な抵抗を誘発した。午前6時までに、グアレナス−カラカス間の別の終点において、学生らがカラカスのヌエボシルコ駅を占拠し、運転者らを公然と非難していた。

非公式労働者らが合流し、ヌエボシルコの群集はボリーバル通りに向け北進し、この主要な幹線道路の交通を妨害するためにバリケードを築いた。正午までに道路封鎖は東方のプラサ・ベネスエラや中央大学、南方のフランシスコ・ファハルド高速道路、西方のフエルサス・アルマダス通りへと広がった。革命的な興奮が学生、非公式労働者や硬化した革命家を一体にし、値上げされた運賃に対する当初の怒り(大部分は個人の運転手に向けられていた怒り)は、新自由主義経済一括政策全体に向けられるよう首尾よく広められた(それによって怒りは直接大統領に向けられた)。

非公式経済の構造は反乱の要素以上のものをもたらした。つまりそれは、協調や意思伝達の手段をももたらしたのである。オートバイのタクシーが町中を往復し疾走し、自然発生的な反乱を、革命的な状況に似ていると人が考えるような、より広範囲な連携した様相へと引き上げた。

その間に、似たような状況がベネズエラの全ての主要都市において自発的に現れていた。朝早くからサン・クリストバル、バルキシメト、マラカイ、バルセロナ、プエルト・ラクルスやメリダにおいて、また午後遅くにはマラカイボやバレンシアのような他の主要都市において抗議が発生した。ある者たちは、一般的なあだ名である「カラカソ」は誤解を招き、反乱の全国的な特質を押し隠している、と正しくも論じてきた。

27日の午後には、パルケセントラル付近の学生らに警察が発砲し、死亡者の事例が報じられた。日が暮れると、略奪は(頻繁に警察による援助と共に)拡大し、通例触れてはいけないカラカス東部の裕福な区域にさえ及び、カラカス単独で1千の商店が燃やされた。多数の人々が必需品を略奪していた(大多数のビデオの証拠は、人々が家庭用品や食糧、特に大きな牛のわき腹肉を運び去っていくのを示した)一方、ぜい沢品も免除されなかった。そしてその結果、多くのバリオ〔居住区〕は、上等な食品や輸入ウィスキーやシャンパンで祝いを上げ、あまりにも習慣的に拒まれてきた生活をわずかばかりだが味わった。

「完全なる正常性」

2月28日の朝は雑多な様相を呈していた。ある地域では警察が自動式の武器で見境なく発砲し、その一方でカラカス南西のアンティマノ区のような地域では、警察は統制された略奪を許すことに同意していた。反乱を抑制する政府の最初の試みは甚だしいほどの失敗であった。平静を求めて生放送のテレビに内務大臣が出演したのだが、放送中に失神したため放送の中断を余儀なくさせた。

午後6時にペレス自身がテレビに出て、憲法上の保障を一時停止し戒厳令を敷くという決定的な決断を布告した。国が「完全に正常な」状況にあるという同時になされた主張は、その決断を考慮すると殆ど信用できない。これが政府の弾圧及び反乱の終わりの始まりの両方に青信号を出した。外出禁止令が課せられ、それを破る者たちは厳しく扱われた。

弾圧が最悪であったのはカラカスの最大規模のバリオであった。西のカティア地区と東のペタレ地区である。警察が反乱の組織的中核として注意を向けたのは前者であり、特にベインテイトレスデエネロ〔23 de Enero:1月23日の意味〕地区である。組織者として知られた者らは自宅から引きずり出され、処刑され、あるいは「失踪」させられ、治安部隊が狙撃手からの抵抗に遭うと、彼らは高層住宅街自体に発砲した(今日まで弾痕は認識できる)。ペタレ地区では、3月1日メスカ階段で軍が発砲した単独の出来事で20人が殺害された。

3日以内に国の多くは「鎮定」されたのだが、カラカスは5日以上の暴動を体験した。反乱の人的犠牲が完全に明らかになってきていない理由は、特にペレス政権が事件を調査する如何なる全ての努力をも妨害したためである。後日の政府による調査は殺害された人の数を300とした一方で、大衆の想像は3千程であると見定めている。大量殺戮の噂が1990年に、おそらく偶然ではなく「新たな災難」と呼ばれる公共の埋葬地の一画における集団墓地の発掘に到った。そこでポリ袋に入れられた68の遺体が掘り出された。そしてあとどれ程の死者が政府の勢力によって隠蔽されたのかは誰も知らない。

MBR-200の誕生

国際的にみて、数十年の間ベネズエラの現実を不明瞭にしてきた民主的な見せかけが一撃で粉砕された。ジョージ・ブッシュ・シニアやスペインのフェリペ・ゴンサレスが他の指導者らと同様に、ペレスに直接電話を掛け、これほど信頼できる顧客国が明らかに一夜にして破綻したことに対する激しい動揺と落胆を表明した。民主的な優秀性の印象を維持する絶望的な試みにおいて、指導者らは大衆反乱を少数の過激派や外国人(コロンビア人と読む)に責任を負わせようと試みさえした。

政治的には、カラカソは旧体制の終焉の徴候を象徴した。チャベス派の元副大統領ホセ・ビセンテ・ランヘルは「ベネズエラの歴史は二つに分かれる」と明確に述べた。革命的なコールディナドラ・シモン・ボリバル〔Coordinadora Simón Bolívar〕の代表フアン・コントレラス〔Juan Contreras 〕は、腐敗した「政党支配体制〔partyocracy 〕」を完全に破壊したのは1992年の二つのクーデター未遂(ひとつめはチャベスによって率いられた)ではなく、1989年のカラカソであると論じる。その証拠はそれらのクーデターが1989年の反乱の直接の結果であるという事実である。コントレラスはそれをこのように述べる、「チャベスがこの運動を生み出したのではなく、私達が彼を生み出したのである。」

隠れた革命運動は軍隊の中で数年以前に形成しており、それを率いたのはウゴ・チャベス、ヘスス・ウルダネタ〔Jesús Urdaneta〕、ラウル・イサイアス・バドゥエル〔Raúl Isaías Baduel〕や、故フェリペ・アントニオ・アコスタ〔Felipe Antonio Acosta〕である。正確に言うと1982年、解放者〔シモン・ボリバル〕の生誕200周年〔に形成された〕。それ故にMBR-200、革命的ボリバル運動200 という名称なのである。それからの数年間、この共謀者らは彼らの大義に下仕官をリクルートするべく務めたのだが、カラカソが彼らの不意をついたとき、クーデターを支援するというMBRの計画は未だに完成の途上にあった。

抵抗の両極化させる影響とそれに続く虐殺は、一般市民同様に軍の下士官にも強大な影響を及ぼした。大部分が下層階級出身の若い兵士らは、同類を虐殺するべくバリオに送られ、多くが発砲することを拒絶した。後に続くクーデター未遂にとってのカラカソの重要性は、チャベス自身が次のように説明した。「カラカソなしには私達は実行することができなかったであろう。それはペレスにとっての命取りであり、より多くの軍人があの日々に行われた弾圧に関与することを辞退した。」カラカソは優勢な政治体制に対する運動の反対を鋭くし、新たな新参者をもたらし、衰えていたMBR-200を「再活性化」させた。

記憶されるカラカソ

カラカソという出来事がベネズエラ国外では軽視されるているかもしれない一方で、この大衆反乱を抹消しようとする努力は徒労に帰し、支持者らとエリートの両者の記憶に今も刻み込まれている。カラカソは貧しい者や疎外された大衆に対する彼ら〔エリート〕の恐怖を増強させた。1998年のチャベス政権の選挙勝利をもって、この記憶は制度上の基準を獲得した。そして先の諸政府がカラカソを抹消しようと、あるいはその重要性を否定しようと試みたのに反して、ボリバル革命はこの反乱を自らの誕生の瞬間に転換した。

先日、国民議会の公共会議においてカラカソの記念日が祝われたのは、最も厳しい弾圧の処置が執られたカラカスで最大のバリオのひとつエルバジェ地区である。1976年に警察の拷問者の手によって父親を亡くしたホルヘ・ロドリゲス副大統領は事件について語り、次のように論じた。「私達は未だ処罰逃れに挑戦する必要がある」と述べることで、1989年2月と3月に行われた虐殺の責任をとるべき者に注意を向けた。「[カラカソの]記憶は消えることはない。そしてベネズエラ人は共和国の時期を通して発生した人権侵害が忘れられることを許してはならない。」その目的のために、政府の「護民官」であるヘルマン・ムンダライン〔Germán Mundaraín〕は、カラカソの最中に殺害されたもの達を尊ぶ巨大な記念碑をカラカスに建設することの重要性を強調した。

さらに、ムンダラインは〔米国〕マイアミ(それ以外に何処であろう?)から、カルロス・アンドレス・ペレスを送還させる要請の手続きを開始した。虐殺への関与に対する告訴を受けさせるためである。カラカソを終わらせた虐殺に関与したものたちを処罰するのは困難であろうが、またペレスを米国から送還させるのは不可能に近いであろうが、これはカラカソの遺産が忘れられていないことを示している。

急進的な詩人兼政治作家の(先日憲法改革のための大統領委員に指名された)ルイス・ブリト・ガルシアは長い間こう論じてきた。「第四次世界大戦はベネズエラで始まった。第三次世界大戦は冷戦であり、それはソビエト連邦の崩壊と新自由主義の外見上の勝利で頂点に達した。第四次世界大戦は1989年2月27日に、国全体が新自由主義パッケージに抵抗することによる最初の反抗をもってベネズエラで開始された。その結果、私達が悟ったことは、経済・社会・政治・文化の領域に対する新自由主義の地球規模の拡張は不可能である、ということである。」

新自由主義に対する戦争における発端となる一斉射撃として、カラカソの遺産は闘争が続く限り消えることはない。


カラカソに関する5部構成のビデオ〔スペイン語〕はYoutube で観覧可:
http://www.youtube.com/watch?v=vg7mvx3IYRw

反抗の素晴らしい写真は以下:
http://abn.info.ve/galeria/

ジョージ・シカリエッリョ=マエルはカリフォルニア大学バークレー校の政治理論博士号候補。彼はカラカスに在住しており、gjcm(at)berkeley.edu から連絡可。


訳者備考:

ウィキペディア英語版によれば、「カラカス暴動」の呼称「カラカソ(Caracazo)」は都市の名前(Caracas)に、一撃およびまたは規模を意味する接尾語である「-azo 」を付け足したもの。同様の呼称は1948年コロンビアのボゴタで発生した暴動の呼び名「ボゴタソ(Bogotazo)」にもみられる。またカラカソの別の呼び名は「sacudón 」であり、「揺する」を意味するsacudir から来ており、「国を震撼させた日」といったような意味になる。



posted by Agrotous at 22:34 | TrackBack(0) | ベネズエラ
この記事へのTrackBack URL

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。