2006年10月14日

フェリスの奇跡と包括的キューバ・ベネズエラ関係
〔Felix’s Miracle and the Convenio Cuba-Venezuela :Original Article in English/ZNet原文

マイケル・フォックス〔Michael Fox 〕Venezuelanalysis.com;2006年8月28日

フェリス・ホセ・エスピノーサ・レデスマは、南米最大のひとつで最も暴力の多い都市、ベネズエラの首都カラカスのタクシー運転手である。住所や電話番号を読む時わずかに細めた彼の目や、大きな印字がなければ、わずか1年半前に、彼が死の床につき、視覚がほぼ完全に無くなり、かろうじて生きながらえようとしていたとは予想もつかないであろう。

それが彼に起こるとは思いもよらなかった。カラカス消防署での35年間に、免許を持つ看護士及び救急医療技術者として、患者を直に治療しながら、人々が死に行くのを見てきた。したがって、最初の症状――のどの渇きの増加、足の感覚の喪失、脚の力の衰え――に気づき始めたとき、彼はそれを顧みなかった。

しかしそれは彼の世界が周りで崩れ去る以前であり、医者は彼が既に知っていたことを確証した。フェリス・エスピノーサは糖尿病にかかっていた。つかの間の数年の後、ある疾病休暇の最中に、ある用紙に署名しに事務所に着くと、そこには彼の退職用紙もあった。彼らは彼に祝福を述べ、彼と握手をし、家に送り返した。フェリスは退職を望んでいなかった。彼の症状は、ベッドを離れることができなくなるまで重くなった。彼の生きる意志は次第に消えていった。

彼の連れ合いは、何かをしなければいけないと決心した。彼女は助けを求めて、彼の消防署の元同僚に電話を掛けた。フェリスが「奇跡」としか言い表せない進展を引き起こした一本の電話を。

一週間後、フェリスは車椅子で身を起こして座ることが出来ない程に重症で、キューバ航空機に運び込まれた。3時間半が過ぎ、2005年1月中旬の水曜の午後、飛行機はハバナ郊外のホセ・マルティ国際空港に着陸し――滑走路から青々とした野原が広がり、カリブ海の空には厚い太陽が深く沈み行き――そして、フェリスは飛行機から運び出され、その後には治療のためキューバを目指した150人のベネズエラ人の仲間が続いた。フェリスと他の患者らは空港から運び出され、島全域の別々のホテル、センターや病院に分散された。

1年足らず後の昨年12月、フェリスは再び水曜の便に乗り込んだ。今回は、彼自身の2つの足で、今回は、ほぼ完全な視覚で、そして今回は、我が家に向かって。

フェリス

フェリスは彼が実際にキューバに行くとは思ってもいなかった。それは長年の間、彼の夢であった。音楽が彼を常に呼んでいたと、この生まれつきの歌手は言う。「あのような場所は他にはない。」だがこれは異なっていた、「生きて返ってくるとは思ってもいなかった」と彼は言う。

キューバでフェリスは、必要な介護の度合いと種類に応じて、シエンフエゴス・クリニックから、ピナル・デル・リオ、タララ、プラデラ国際医療センターや、その他へと移送された。彼は糖尿病性網膜症のために、10回ほどの眼科手術に加え、フェリスによればベネズエラでは利用できない毎日のリハビリテーション、治療と薬を与えられた。各段階を追うごとに、彼は徐々に健康を回復していった。

一度歩けるようになり、動き回れる程に元気になると、フェリスは島に返礼し始めた。彼は歌いだし、彼の言では、「1年間で、ベネズエラで彼が60年間にした以上に歌った。」彼は計画中のファースト・アルバムのために4曲をレコーディングした。島での最後の数ヶ月、国中で彼らと共に演奏するようキューバの芸術家達に誘われ、フェリスは実質的に巡業していた。そしてベネズエラ帰国の数日前に、あるキューバテレビ局で遭遇したとき、フィデル・カストロ自身がフルアルバムのレコーディングに対する支援を申し出た。

いまフェリスは、彼のパートナーが彼女自身手術を――ベネズエラで――受けており、この先数ヶ月安静にしなければならないので、彼女のタクシーを運転している。フェリスは、病気と生きることを学び、2日に一度インシュリンを打っている。問題となってきているのは彼の目だけである。

「少し霞んで見える、沢山じゃない...けど、帰ってきた時よりも見えなくなっている」と彼は言う。

これが、「Convenio Integral de Cooperacion de Salud, Cuba-Venezuela 」(キューバ・ベネズエラ間、保健に関する包括的協力協定)[]を通し、キューバへ赴く患者の多くが半年から1年以内に再訪する理由である。ある者は予防検査のため、またある者は更なるリハビリテーションや治療のため戻る。ある者は毎年、病状しだいで、長くて6ヶ月間再訪する。フェリスは12月が来る前に、また「[彼の]書類が揃い次第」島に戻るつもりでいる。

協力協定が調印されて以来の5年8ヶ月の間に、協力協定で送り出されてきた1万3千人近いベネズエラ人患者の病状は、彼らが属するベネズエラの諸地域と同様に多様である。

神経系統の病気を持った2千人以上の患者、視覚に関する問題を持った2千人近くの患者、循環系・呼吸系・消化システムの病気を持った患者、約8百人の腫瘍患者、癌、奇形、皮膚病、血液の病気、精神病、中毒問題、筋組織や整形外科関連問題を持つ患者などである。

当然、全ての事例が成功したのではないが、全てが影響力を持っている。

協力協定の監督はジョニー・ラモスである。計画を調整した3年間で、百回目のフライトを迎えた彼は、並外れて高い再編成率を持つチャベス政権の真のベテランである。アンデス山脈のメリダ州の故郷から遠くはなれ、手術の複雑な状況でキューバで死亡したベネズエラ人患者の話をラモスはする。

遺体を故郷の家族へと運ぶ旅は、長い道のりを登り、アンデスの奥地へと何時間も続くものであった。大学都市のメリダからは遠く離れた高地。小さな土地のちっぽけな住居で、謙虚で感謝を示した家族に出会ったその時に初めて、ラモスは、今回は患者が生き延びれなかったとはいえ、この計画が届くその長さ、重要性と距離を理解した。

「私にとってそれは物凄い充足感だった...[協力協定]が達成している事の途方もなさを感じることは」とラモスは言った。「この個人が[大統領宮殿]ミラフロレスに到着し、キューバへと向かうことが出来たということは驚くべきだ。」

親善

計画の全てが無料である。患者のみではなく、ベネズエラにとっても。ベネズエラは島へと往復する毎週の便の支払いを、各航路おおよそ75人の患者と彼らの同伴者(ほぼ全ての患者に誰かが連れそう)[]のために行う。それに加えて、ミラフロレスで協力協定に携わる4人のキューバ人医師の経費を払う。残りの全てはキューバが負担する。治療、ホテル、病院、食糧、医師、看護人や国内輸送。全てがキューバによって支払われる。その見返りにキューバは何を得るのか?

「私達の友情」と笑顔でラモスは言う。彼は2ヶ月に一度キューバに赴き、毎日彼の同郷人と話をする。ラモスによれば、ウゴ・チャベス大統領がカリブ海の島に8人のベネズエラ人の子供を治療のため連れて行ったとき、フィデル・カストロはこう述べた。「私達はこれに代金を請求することはできない。」というわけで、患者を治療のためキューバに送り出す協力協定の部分は残りの協定から脇に置かれた。

とは言え、見返りにキューバは確かに、保健の協定から直接くるものではない、あるものを受け取っている。調印された協力協定のもと、キューバは農業から観光、教育から保健に及ぶ10の分野において支援や専門的技術を提供する。その代わりに、当時ベネズエラは日量5万バレル以上の石油を送るのであった。協力協定の保健関連合意のもと、ベネズエラ人患者をキューバに送り出すことは、協定の多くの条項の1つでしかないのだが、それにもかかわらず最も知られたものとなった。

2000年末期に協力協定が調印されて以来、キューバ・ベネズエラ間の統合は着実に拡大し、米州ボリバル代替構想(ALBA)[]の下、現在この合意は二カ国間協力の小規模な一部にすぎなくなった。〔ALBA〕は2001年に打ち立てられ、連帯と協力を基にした統合と発展の対案となる形態のための下地作りを試みている。

その結果、昨年、二カ国の間の貿易は12億ドルに達した。現在ベネズエラは毎日9万バレルの石油を特恵価格で島に送り、またキューバの石油産業に投資している。それと引き換えにベネズエラは自らの社会・教育計画に対する支援を、莫大な「人的資本」(キューバ人医師や、保健・教育専門家ら)から得てきた。それはこの島国が過去半世紀以上に亘り、また米国による経済制裁の間に、築き上げてきたものである。その経済制裁によってこの島国は、自らの手元にある資源のみを基にした発展への別の道を追求することを強いられた。

「神に感謝を、チャベスに感謝を、そしてカストロに感謝を!」

「ベネズエラに帰ったとき、あなた方の経験を語る必要がある。良い事も悪い事も含めて、とにかく語ってください」とラモスは8月2日水曜日に、島へと向かうグループに言った。「なぜなら彼ら〔米国政府〕が、私達は病人を飛行機に詰めてキューバへ送る故にテロリストである、と言うから。彼らにとって、これはテロ活動であり、人々を殺すため爆弾を飛行機に積み込む彼らが善玉なのです。」

グループの大多数にとって、これが最初のフライトであり、多くの患者が同意する。ほぼ全員が、彼らの回復への扉を開いたチャベス大統領とフィデル・カストロを完全に支持している。

「まず、神に感謝を。次にコマンダンテ〔司令官〕チャベスに感謝を。そしてフィデル・カストロに、この素晴らしい協力協定をありがとう」と、多くの患者が同意する歓声を上げてフェリスは言う。だが、全員ではない。アリティス・ベハラノ・マリンは8月2日に、6ヶ月のキューバ東部の薬物リハビリテーション・センターから帰ってきた。治療に「とても感謝し」ており、1月に再訪することになっているのだが、彼は戻ることを望んでいない。

「私はキューバ政権が好きではない」と彼は言う。「私が思うに、フィデルの死とともに...うまくいけば国は民主主義に移行でき、そうなればより公正になる。」

手荷物のため同様に列を成していた帰国の途に着く同胞の患者の群集が、彼の意見を声にだし厳しく非難した。

「好きじゃないなら行くなよ!」

「感謝していないのか?」

「ちょっとおかしいよ、アリティス」と近くの患者が言った。「もし君が言うように、フィデルの死によって、人々に変化を与えると君が信じているなら。あそこに民主主義は既に存在している。けど、もし起きていることに賛成しないんなら、君は行くべきではなかった。」

この出来事は、仲間との衝突が避けられないとはいえ、計画内にある思想的な自由を目立たせた。にもかかわらず、旅行開始時の政治的信条に関係なく、大多数がチャベス大統領とカストロに心酔して帰還する。不思議なことであろうか? 彼らの人生は変えられたのであり、多くの事例では救われたのである。

空港

カラカスから丘を下りてすぐの、シモン・ボリバル国際空港の国内線ターミナルに、水曜の便がキューバから着くとき、居合わせるのは強烈である。島での1ヶ月、5ヶ月、あるいは10ヶ月後に、祖国の土を踏む患者の光景は人を圧倒させる。

6ヶ月前出発便に車椅子で搭乗した松葉杖の女性達。再び手足を動かすことは出来ないであろう、と告げられた者たちが歩き、癌や腫瘍や消耗性疾患を持つ患者が、治癒され、あるいは取り戻された希望とともに帰ってくる。

マトゥリン市出身の11歳のレイダリス・コマチョ・ヒメネスのような患者は、難治性癲癇を持ち、脳腫瘍を切除するためキューバに赴いた。彼女の母親クラウデリスによれば、彼女は手術を受けて生き残った6人の子供の1人だという。直前には、彼女は歩けなかったばかりか、かろうじて意識がある状態だった。「完全な植物人間」と彼女の母親は言う。現在彼女は、他の子供と同様に、微笑み、抱きしめ、喋り、笑い、泣く幼い少女である。彼女には第二のチャンスが与えられたようである。クラウデリスによれば、ベネズエラ人医師らは彼女に、彼女の娘は9歳を超えて生きることはないであろうから、別の子供を儲けるべきだと告げたという。「これは奇跡です」と彼女の母は言う。「有難いことに私の子は元気で、これからも生きていく。」

微笑みながらレイダリスは別れを言い、検査を受けるためキューバへの復航便に搭乗する列へと並んだ。彼女と彼女の母はシーラ・ ガルシア病院の医師と相談し、腫瘍が残した凝血塊を取り除く更なる外科手術を危険を覚悟で行うかどうかを決定する。

おそらく、最も印象的なのは、毎年の半分を島で過ごす数百の患者達であろう。衰弱させる不治の病や障害を持つ患者達。例えばカラカス出身の10歳になるホセ・グレゴリオ・ボルヘス・ヒル。彼は2000年に協力協定でキューバに赴いた最初の8人の子供のひとりであり、この計画で6度補足的に再訪した。ホセは脳性麻痺と脳萎縮を持ち、車椅子から離れることが出来ない。彼に理解力があるかどうかは言い難く、彼の四肢は統制なく動くのだが、彼の父親は大きな回復を見てきた。

「奇跡を行うとかいう事ではないのだが、患者の生活水準は改善していることを人は感じる」と彼の父イバンは言う。「最初の旅[の最中]我が子は動かず、また何も言わなかった、けど今は少なくとも彼は『水』と言い、動き、理解し、アニメを点ければ彼は理解し、認識する。彼は私のことを認識し、彼の教師や...彼と常にいる人たちのことを認識する。」

イバンは息子のことを感謝している。「私が持っているもの全ては、彼のおかげである」と彼は言う。「そして、有難いことに、少しずつ彼は改善している。」イバンと協力協定の常連となった彼の息子は島への旅を続けていく。

他の場所であったならば、患者達の大多数にとって、ゆっくりで僅かな改善にかかる時間や費用をつぎ込むのは、遥か以前に不可能になっていたであろう。だが協力協定には「どの子(あるいはベネズエラ人)も取り残さない」という真の非公式のうたい文句があるようである訳注1

キューバでの6ヶ月近い治療期間中の改善を語るとき、52歳のメリド・サーベドラの目には涙が溜まる。今は対麻痺患者であるメリドは、元登山ガイドで、4年前にどしゃ降りの最中、彼の乗用バンが風の強い山道から飛ばされ、下方の植物に衝突するまで175メートル落下した致命的な事故で怪我を負った。9人の搭乗者のうち3人が死亡した。島での約6ヶ月の後帰国したばかりの彼は今、おそらく車椅子から一生離れることができないであろうが、右足を動かすことが出来、「とてもうれしい」という。メリドは更に5ヶ月から6ヶ月の治療とリハビリのため2月にキューバへと再訪することになっている。だが、いまは我が家へと帰っていく。彼は彼の妻と4人の娘に帰路に着いたことを伝えていない。彼は彼女達を驚かす気なのだ。

なぜキューバか?

なぜ患者達をベネズエラで治療しないのか? ラモスはそれが、キューバ人や他の中南米人がいつの日にかベネズエラに治療を求めてやって来るという可能性を伴った、最終的な目標であると断言した。「私達は協力協定をひな形へと変えなければならない」とラモスは言う。「ここの諸機関が機構を構築する能力をもつために。」

だがまず最初に、その役割を処理するために、医師らが訓練され、特別学部が構築され、施設等が設立されなければならない。ベネズエラはその道を進んでいる。3千人以上のベネズエラ人学生が現在キューバで医学を学んでいる。ラテンアメリカ医学学校(ELAM)〔Escuela Latinoamericana de Medicina 〕の1998年の創立以来、既に3学年が卒業しており、卒業生達はベネズエラで働いている。ベネズエラで医学を専攻しているベネズエラ人もおり、ELAMベネズエラ校設立の計画もある。

2005年6月以来、ベネズエラは総計360以上の総合診断センター、リハビリテーション・センターや先端技術センターを国中で開設しており、数百がそれに続く。10月にベネズエラ保健省は、200近いリハビリ・センターに、神経筋疾患をもつ患者のための新しい電気設備を割り当てる予定である。そしてこの先週末にベネズエラは、その類では世界中で最大のものと言われる、中南米心臓病小児病院をカラカスに開設した。ここで毎年1千の命を救い、年間4千5百の手術を実施することが期待されている。だがラモスによれば、ベネズエラの国内における技術的医療計画の第二次バリオ・アデントロの下のこれらの第一段階を別とすると、この様な専門的な症例に必要な特殊な設備は設置され始めたばかりだという。

安価なベネズエラ医療の質に対する要望は、伝統的に多くが放置されてきた。ベネズエラ医師らはフェリスの右脚の切断を望んでいた。別の医師らはメリドの脚を切断しようとしていた。別の医師らはマラカイボ居住者リカルド・ペティンの脚を切断しなければならない、と誓っていた。このそれぞれの脚はキューバで救われた。そこでは、治療は質であり、全人的医療であり、持続的であるとフェリスは述べる。「人はそこで治るために治療を受ける。リハビリの予約を逃すことはない」と彼は言う。一方治療が持続的でも集中的でもないベネズエラでは、「明日まで延期」され易い。

協力協定の患者の大多数が低所得層であり、毎日の生活費の全てを支払う蓄えを持っておらず、移植手術、脳手術や毎日の身体的リハビリの費用など問題外である。この仕事をこなすことの出来るベネズエラ人医師はいるのだが、彼らは高価で、「一般民衆」の全人的医療のニュアンスで養成されておらず、質と無料の医療の両方を提供するようには訓練されてもいない。

それが規準の一部であり、それによってキューバ・ベネズエラ協力協定の患者が選ばれる。ラモスは、病気の重度、移動しなければならない距離や、経済的必要性に応じて患者を選ぶと言う。最も危篤状態にあり、最も遠距離で、最小の資産を持つものが最初に飛行機に乗る。

だが誰が残り、誰が行くのかを決めるのは彼だけではない。全体で、25人のチームが協力協定の保健部門を調整し、キューバ人医師らを含めた全員がラモスの指揮の下にある。

ミラフロレス見学

大統領宮殿ミラフロレスは、協力協定に門戸を開いた。今宮殿は、チャベス以前には決して夢想されなかったであろう形で、活気に満ち溢れている。しきりに要望を持った個人が到着し、ミラフロレスは毎週水曜の朝、出発便の前に、朝食や昼食、そして催し物に国全域の患者たちを迎え入れる。

ラモスはミラフロレス見学を案内しており、私達をキューバへ送られる患者が通る過程どおり案内した。「まず、申請書が直に、あるいはカードで到着する」と彼は言い、拝啓チャベス大統領、と書かれた手紙を私達に見せた。

手紙は協力協定のスタッフによって直接回答され、依頼はコンピュータに入力され、キューバ人医師のチームが病気の重さや各患者の症例を分析し、時には更なる情報のため個人に連絡を入れる。

カルテが照合確認され、病状が分析されると、医師ら自身が最終的な判断を下し、航空便の予約を入れる。便はハバナから週に一度、帰国患者と付き添いの一団を乗せやって来る。ボリバル国際空港に着くと、新しい患者と再訪する患者が飛行機に乗り、現在島で治療を受けている1500人近いベネズエラ人に合流するべく出発する。

8月2日の便(計画開始から182番目)の時点で、2万3千人以上のベネズエラ人(1万2898人の患者と1万672人の付き添い)が計画の下キューバに赴き、この患者の多くが、健康診断やリハビリや更なる治療のため、少なくとも一度、あるいは二度再訪した。

順番待ち名簿については、現在3万5千人の個人が載っており、その中には2001年にまで〔登録が〕遡るものもいるのだが、ベネズエラでの無料の医療が改善するにつれて、ますます患者を国内で処置できるようになっている、とラモスは述べた。

例えば、ベネズエラの医療計画である第一次バリオ・アデントロ〔地域の中へ〕は、2003年に開始し、ベネズエラ人の医療問題に直接対応する3万人弱のキューバ人医師を呼び寄せた訳注2。予防医療に集中し、ベネズエラの最も貧しい地域共同体のいくつかで始めることで、第一次バリオ・アデントロは問題の根本から住民の病気を取り除くべく試み、これまでのところ成功を収めてきている。ベネズエラ保健省によると、2006年7月現在、国全域で1億9300万件足らずの第一次バリオ・アデントロ診察が行われてきた。ラモスはバリオ・アデントロによって、順番待ち名簿の約半数の問題を解決してきた、あるいはすることができるであろう、と信じている。協力協定は既に悪化した病気のための、最後の手段なのである。

このことは、チャベス政権の下、ベネズエラが医療に大いなる焦点を当ててきたことを示している。人口2700万のこの国において、多くのものが認めたがらないとはいえ、かつて取り残され貧しい人口が、無料で専門的な医療を、生まれて始めて受けており、それは多分に、あまり人気のないカリブ海の隣国との拡大された共同と協力によるのである。

しかし、この協力の規模は、キューバの連帯が彼らの人生をどれ程変えたかを知っている1万300人の患者たちにとって無駄ではなかった。フェリスの様な患者達は、この協力協定が彼に人生を与えたと信じており、それは「奇跡」以外の何ものでもない。


これはALBA、キューバ、ベネズエラと中南米間の統合と協同に関する4回シリーズの2回目である。

ALBA第一部:米州ボリバル代替構想(ALBA)の定義日本語訳、も参照

]非公式に「Convenio」と呼ばれている。

]連れ添いも同様に完全な医療点検と共に、必要ならば治療も受ける。興味深いことに、しばしば連れ添いは患者よりも病気であることがある。

]ALBAの枠組みの下での最初の公式合意は、2004年12月に二カ国の間で調印され、また今年4月キューバ、ベネズエラとボリビアが人民貿易協定に調印し、三カ国の間の貿易を拡大させた。


訳注

1:これは米国の「No Child Left Behind」法への言及

2:バリオ・アデントロ計画は4つの段階に分かれて行われる。2003年3月に開始された第一次バリオ・アデントロは、当初カラカスの貧しい地域から始まり、以来ベネズエラ全域へと広がった。この段階にキューバ人医師らが関わっている。2005年6月に着手された第二次バリオ・アデントロにおいて、診療センターやリハビリ・サービス等の医療施設が建設された。2005年に告示され開始された第三段階は、現存する42の病院の質の向上や、二次的な医療施設の建設を目指す。第四次バリオ・アデントロは間もなく開始される、とチャベス大統領は述べた(英文参照元)。ここでバリオ・アデントロ計画の施設や設備の写真を観覧できる。

posted by Agrotous at 22:35 | TrackBack(0) | ベネズエラ
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