2006年01月20日

ベネズエラの道
〔Venezuela's Path: Original Article in English/ZNet原文

マイケル・アルバート〔Michael Albert〕;2005年11月6日


ベネズエラ行きですか? あそこには美しい滝や山がある。豊かな打ち寄せる波、砂浜、そして太陽。だが、近頃の最大の呼び物は革命である。

この10月に私は一週間カラカスで過ごした。このことはたいした情報ではないが、それはそれとして、以下は私が知り、感じたことである。

新たな政治体制に向かって

私のボリバル革命との、最初のそしてほぼ間違いなく最も個人的に驚かされた出会いは、聞くところによると、チャベス〔ベネズエラ大統領〕の「人々が力を持つべきである」という望みに従って創立された、国民参加省〔Ministry for Popular Participation〕においてであった。

インタビューした役人らに私は、「それはどういう意味ですか、人々が力を持つとは?」と訊ねた。「諸帝国が人々の政治参加を妨害してきた」数千年、その全てが「北米帝国」で頂点に達したことに言及した後、役人らは「米国は200年の代議政体を保持してきたが、あなた達の制度において人々は支配権を他人に譲り渡している」と言った。ベネズエラではそうする代わりに、「私たちは、直接参加そして〔民衆が〕主役となる民主主義において、人々が力を持つ制度を謙虚に提案しているのです。私たちが望むのは、新しい種類の社会を達成する、新しい種類の民主主義なのです。」

壁には彼らの目標を示した図形があった。多数の小さな円があり、もうひとつの層には別のいくつかの大きな円があり、といった具合である。その意図は「人々が直接考えを述べることの出来る、おびただしい数の地方の草の根議会、あるいは市民の評議会を創立することです」と彼らは述べた。その地方評議会は「参加型民主主義という新たな制度」の基本的な構成要素となる。

予想図の下層は「共通の慣習と風習」を持つ共同体に焦点を合わせている、と役人らは言った。「私たちはそれを、それぞれが200から400の家族、あるいは1千から2千の人々で構成されると定義します。」もちろん、それぞれの地方の構成単位内に、さらに下位の構成単位を予想できるが、それは当面の彼らの課題ではなく、彼らの図形にも載ってはいない。次に地方の構成単位は「選任された代弁者」をひとつ上の層の構成単位に送り出す。この2番目の層の構成単位は「さらに広い地理的な地域を包括し、」そしてそこから「次の層に代弁者らが選任される、といった具合で続き」それが「行政区、地方自治体、州、そして社会全体」に範囲が及ぶ組織網を作り出すのである。

図表と目標を説明しながら、参加省の役人らは、最小構成単位は「新しいベネズエラ政治形態の意思決定の中核」となるよう意図されていると述べた。チャベスとこの省は「新年までに3千の地方議会を整わせる」ことを望んでいる、と彼らは語った。彼らの目標は「4年か5年以内に2千6百万人のベネズエラ人をカバーするのに足る分」を確保することである。

彼らは「労働者階級の独裁、あるいは他のいかなる種類の独裁」も望んでいないと言う。驚くべきことに、彼らは「そこから学ぶことはあるが、チェ〔・ゲバラ〕が命を賭けたもの」を望まないと述べた。彼らは何か新しいものを、底辺から築きたいのである。

「もし地方議会が何らかの新しい政策を望み、大臣、立法府、あるいはチャベスがそれを望まなかったら、何が起こるのですか?」と私は聞いた。「いずれにせよ」と彼らは言い「一度かれらの準備が整い、機能していれば、議会が裁決する。」

だが「100家族による議会が全国のために決定を下すことは望ましくないでしょう」と私は言った。「その通り、地方議会は、彼ら自身の地域が引き受ける事に関してのみ最終決定を下せる」との答えが返ってきた。

「例えば1つの議会が、その共同体の範囲を超えて、裁判所や警察やその他に関わる犯罪に関係することに変更を加えたいと望んだとしたら?」と私は尋ねた。「どうなるのですか? いつ法や政策が変更するのですか?」

「全てのレベルにおいて反応があるべきです」という答えが来た。「最も下のレベルでは、議会はその共同体内において出来ることをする。だが犯罪は共同体の枠を超えており、問題を対処する場である、それよりも上のレベルに持っていくことも同時に必要となります。反応として地方自治体のレベルで、彼らは条例や他の事を変更するかもしれない。そしてそれは更に上へと持っていかれる。」

それでは、「ある地方議会が投票年齢を引き下げたいと仮定しよう。彼らはそれを次のレベルに持ってきて、そこの議員たちがそのことにとても興味を抱く。それは立法府にまで行き、立法府はあらゆる選択肢も持っているのですか?」

地方構成要素は――その代弁者を通して――国民全体の民主的構造の次の層に提案を送るのだと私は聞かされた。「彼らが地方の地域のみに影響すること――地方選挙に要する年齢の様なこと――に決定を下したとしたら、それが今起きている事の全てなのですが、それは広範囲に論議されずに、彼らの管理によりすぐ制定されるのです。」しかし、もし彼らの要望が、国政選挙の全般的な新たな選挙法の場合のように広範囲に及べば、「彼らの提案は適切なレベルにまで持って行かれる。そしてその提案は皆が検討するため、基礎となる全ての議会に戻される。」

チャベスの政府により、新たな並行する政治形態を築くことを任せられたこれらのボリバル人〔ベネズエラ人の意。以下同〕は、本当に必要な代理の意思決定以外は望んでいない。彼らが、提案がひとつの議会から上に行くよう望むのは、それを代議士たち〔representatives〕が決定するためではなく、代弁者ら〔spokespeople〕がそれについて討議し、それぞれの代弁者が他の地方議会にそれを持ち帰り、最終的にはその全てにいきわたり、全体として決定を下すためである。「もし支持があれば、新たな投票年齢をもたらすことが目標となる。チャベス、市長、あるいは議会、または他の誰もがその変更を望もうと望むまいと」と、私は聞かされた。

私は、当然この理想を妨害する、多くの選任されたあるいは指名された市長、州知事、あるいは官僚――彼らの権力が減らされる、または民衆のそれが増大することを望まない人々――がいるはずです、と述べた。ええ、と答えが来た。「多くの官僚は20年や30年地位に就いてきており、彼らのうち約60%がこの計画をけん制している。」

「チャベス政権内の大臣のなかにすら」と私は聞いた「権力を握る状態から民衆に従うことを不愉快に思う人がいるのですか? キューバの人民会議もあなた方が述べた理想の多くと共に始まったのに、国家権力が参加型となる点には到達しなかった。あなたはチャベス政権が、この議会制度が最大限の発展に到ることを助ける、あるいはこの先、最大の権力を手にするため、議会制度が政府に対抗しなければならなくなると思っていますか?」

答えは「組織された人々のみが決定できる。私たちは、新たな民主主義を創造する道に立っている。私たちは、以前有していたものから前進した。そこには保証はないが、私たちはさらに先に進もうとしているのです。」とはいうものの、古い構造を取り除くことや、あるいは激しく争う必要はない、と役人らは述べた。むしろ、この新たな制度は今存在しているものに並んで築かれ、並行して少しずつその価値を証明していく。古いものの多くは意見を変え、他の人々はそうしないだろう。だが、どちらにしろ、古い様式は、政令によってや、力によってではなく、新しい様式の成功という目覚しい現実により取って代わられる。

「この地方議会を創設するうえで、チャベスの指導力は人々をどのように促していくのだろう?」と私は思った。議会の構造の全ては発展段階の事業であり、そしてそこにはそれを実行に移す多様な発案がある、と役人らは言った。私が聞いた最も印象的で為になるものが次である。「私たちボリバル人には、貧困層移住区〔barrios〕の市民が彼らの現在の住居の所有権を得るための計画がある。そうするためには請願書のみが必要なのですが、請願書が承諾されるには、それを200家族かそれ以上でやる必要がある。」そうなれば、居住者らは彼らの住居を手にし、家族の共同体はうまくいけば草の根の議会となる。

「政府が人々に参加するよう促さなければならないと感じていますか?」と私は尋ねた。役人らは「人々は自ら行動にでているが、政府が彼らを支援することがとても重要です」と答えた。人々が権力を握ることは「新たな考え方と新たな文化」が必要となる、と役人らは言った。「大統領と私たちは参加型民主主義の達成のために力を尽くしているのだが、私たちにはみな克服すべき限界が頭の中にあり、それは古い構造もまたしかりである。」これは繰り返し出てくる論題である。ベネズエラでは、いくつかのクーデターがあり、よって資本と外国の帝国主義に対する闘争がある一方で、現在その闘争は、貧しい人々の習慣と信念にすら存在する、過去の痕跡に対してのようである。

「これまでにどれだけの人が、この計画を支持しているのですか?」と私は聞いた。「議会の全貌は非常に新しく、まもなく公示するところなのです」と彼らは言い、「だが、人々の権限という目標をおよそ4分の1が理解し、熱烈に支持しており、さらに増えるでしょう。」彼らは「権限を別の人に与える」制度は望んでいないと強調した。彼らは「議会制民主主義を望」まない。ベネズエラのモデルにおいて、人々は「代議士ではなく、代弁者を」選出するのである。ひとつの構成要素で提案されたものは、代弁者らを通じて上に行くことで、他の構成要素に伝わり、そしてさらなる討議と決定の為、別の代弁者らにより基部へ戻される。最も低いレベルで決定されたことは拘束力を持つ。「この国には335の地方自治体がある」と彼らは言及した。「およそ255の自治体が大統領の側にいる。」

警察と司法機関についての論議も同様に進行している、と私は聞かされたが、その変革に取り組んでいる人々と話す機会を持てず、どうやらそれは、今までのところそれ程進んでいないようだ。この役人らは「私たちが築こうとしている社会主義は、ロシアやキューバ等における過去の努力の歴史に対する理解を組み入れはするが、それは国家による事業や独裁ではない。私たちは、労働時間を減らし、自然を守り、集合体そして個人の社会的公正を作り出すべく、私たち自身のモデルを創造しなければならない。もし資本主義が続けば、それはこの惑星に終止符を打つ。私たちは、全ての人がより良い生活水準を獲得し、なおかつこの惑星を保存する道を見つけなければならない。高潔な個人は共同体のことを考える。それが、私たちが捜し求めているものです」と私に語った。

補足的な実例

保健に関して、計画に直接関わる政府役人や、薬を調合している医師と話すことはできなかったが、再び政府が古い構造をただ引き継いだのではなく、今までのところそうする傾向もないことは明らかであった。その代わりに、2万人の医師を送ったキューバと協力して、政府は国中に診療所を設立し、地方の貧困層移住区で保健医療を施行し、貧しい者達に初の地元の保健医療をもたらしている。この診療所は人々の要求に奉仕し、かなり民主的に運営され、典型的な労働者の賃金、またはしばしばそれ以下の給料で働く医師が配属されている。人々は診療所に親しんでおり、チャベス派の保健局員らは、古い構造が、直接強制されずに、新しいものによる競争の圧力に屈服し、負けることを期待しているに違いない。

私たちは、掘っ立て小屋の様な住居で覆われた丘陵の斜面の巨大な一帯である貧困層移住区を訪れ、所々でキューバ人医師がそこから働きに出る、新築の小さいが清潔な医療診療所を見た。何もなかったことに比べると――それが正確な比較なのだが――これは極めて大きな改善であり、チャベスに対する貧困層移住区の共同体の支持に説明がつく。私たちは同様に、10年間に50万件の無料で多様な種類の眼科手術を、貧しい米国市民にすら提供する、眼科医療の計画のことも聞いた。ベネズエラ人が交通手段を提供することとなっている。キューバ人が手術を行う。目に関する問題を私自身抱えているため、私はじっと耳を傾け、想像して笑みを浮かべた。

ベネズエラ中で識字能力を高めることを目的とした計画にも、同一の全般的な傾向が当てはまる。同じ論理と方法論により、この計画は同様に、古いものと戦うのではなく、共存することにより始められた。2年以内で、ベネズエラは非識字を撲滅した、とチャベスは報告し、ユネスコ〔UNESCO:国際連合教育科学文化機関〕が確認したようだ。

更にまた、この同様の傾向が高等教育においてすら採用されているのを私たちは見た。政府は、私立公立を問わず国の大学を引き継がなかった。その代わりに、最後のクーデターの試みの最中に石油産業のストライキが失敗した後、政府を倒す試みに参加したことを理由に解雇された4分の3近くの産業の経営者と他の技術工が解雇されたとき、多くの石油管理の建物が不要となった。明らかに官僚の無駄と不正は莫大であった。これらの解放された建物の一群は、新しいボリバル大学〔Universidad Bolivariana〕へと変えられた。

労働者評議会が新たな大学を統治した。政府の教育大臣が校長となった。やがて、彼は評議会を無視し、代わりに、より小規模な集団の集会のみにし、その代表とのみ交流すると決定した。中心人物が職場と交流し、その中に命令系統を要求し、そうすることにより直接の自主管理に干渉するという、この典型的な傾向は憂慮すべきことである。ボリバル革命は、社会生活の多くの側面に根を張る多くの傾向を巧みに扱っている。だが、新たな大学の教育学は、そこの教授にインタビューし知ったのだが、とても斬新であり、学生に草の根のレベルで研究をさせ、彼らの研究を社会の状況と要求に関連付け、採点を学生・学部・共同体居住者の分担作業とすることにより、多様な共同体に仕えることを重要視している。

ジャスティン・ポドゥール〔Justin Podur〕とのインタビュー〔2004年9月19日付ZNet記事(英文)〕において、当時の大学長〔Maria Ejilda Castellano〕は、こう説明した。「私たちは、教育が良質で平等となり得ることを証明します。私たちは、市民である、全体論的な専門家を養成する。彼らは論理、社会的義務、中南米とカリブの独自性、連帯、敬意に対する尊敬を学ぶ。この機関により生み出された専門家は社会の変化のために働く。彼女〔仮定された学生のこと。これは女性の平等に対する意識からくる言葉の選択であろう。〕は、人々を奨励し、質問を生み出すことの出来る、批評的に物事を考えられる人〔critical thinker〕となる。私たちの全教科課程は教育の『軸』に基づいている。勉学のいかなる計画や予定――たとえば専門的な計画の指導あるいは教育――も『専門的な軸』である。だがそこにはまた文化的な軸、政治的な軸、倫理的な軸、美学の軸、最初から大学の外で社会の諸部門とともに直接働く場である社会・共同体間の交流の軸もある。」

ボリバル大学には約7千人の学生がおり、約700人の職員の内250人が非教職員だが、たった120人が専任教授である、と聞かされた。一部の教職員は新たな教育法を柔軟すぎるとして抵抗している。一部の人々は共同体志向すぎると考えている。集会には急進主義者と反動主義者が参加する。教職員の一部は非教職員に授業を提供する傾向に抵抗している。ある者は、全従業員の間の着実に、より公平となっている給料の関係に対して抵抗している。学校の資産を地方にもたらし、カラカスを越えて計画を開始し、高等教育を促進し、一方でベネズエラの田舎の地域に初めて教育面で手を差し伸べる動きに一部のものは抵抗している。

広い見地から見ると、発展している最中だが既に劇的に異なる経験を提供することで、ボリバル大学はその他の高等教育機構と競争している。ボリバル大学の学長である大臣は労働者の自主管理という点において最も望ましくはないかもしれないが、彼が新しい方法は古いやり方よりも優れており、変化の便宜を人々が見ることを通して古いやり方に取って代わっている、と頻繁にそして力強く語る、ということを私たちは聞かされた。ボリバル大学の学生たちは、当然ながら大部分が貧しく、それは古い体制と正反対である。均一な給料と公営の自主管理により構成された地元の生活共同組合と学校との絆は、絶えず拡張しており、過去存在したものに対するある種の並行世界を構築している。

さらに社会生活の別の主要な分野――メディア――を検討すると、表出している傾向がそこでも継続している。日刊紙に目をやると、一面から先に読み続けて、最初の25の記事のうち優に20がチャベスに対する露骨な攻撃か、きわめて批判的な記事である。残りは全く別の話題である。そしてこれが日常的である、と私は聞いた。新聞は企業により個人的に所有されており、驚くことではないが、チャベスの意向に対して敵意を持っている。チャベスは彼らを制限していないどころか、国営化や接収すらもしていない。主要なテレビ局についても同様の状況である。テレビ局について言えば、そしてきっと同じ様なことがそう遠くないうちに活字にも起こるであろうと私は思うが、政府は戦略を持っている。

「VIVE TV」はボリバル大学のようにチャベス政府により新しく作られたテレビ局である。私たちはその施設を訪ね、見学を楽しんだ。この会社の社長と清掃をする人々の間の最大の給料の差異は3対1であるが、ゆっくりだが着実に実施されている新しい支給方針は、同等に到るまで定期的に最下部の人々の時給を上げることにより、全員に対する平等の給料を達成することである。

VIVEにはおおよそ300人の従業員がいる。彼らの設備は〔米国テレビネットワークの〕CBSの様ではないが、確かに優れており、多大な影響を与える可能性がある。新しいVIVEのウェブサイトhttp://www.vive.gob.ve (スペイン語)〕は、世界に向けて彼らの番組を公開・記録している。局を運営する主要機関は、もちろん、労働者の議会である。技能を欠いたVIVEの労働者は、その敷地内で行われる、映画製作や他の主題を含む研修を受けることを勧められており、同時にこれらの設備はカラカスやそれより遠方の市民に、それぞれの現場での撮影の仕方を教えることに利用されている。

実際、この局の義務は人々のために声を提供することである。その番組は決まって市民が彼らの考えを語るところを紹介し、それにはカラカスから相当離れた場所の声も含まれる。これはベネズエラで初めてのことであった、と私たちは聞かされた。全国放映のために国中の人々が映像や編集し終えた素材を提出できるように、VIVEは地域共同体への多くの訓練を引き受け、また地元の市民にテレビカメラを配っている。

いくつかの点でVIVEは米国の地元の共同体ケーブル局に似ている。違いはそれが全国規模であり、熱意が遥かに率直で急進的であり、従業員が自らを、別の場所でも将来採用されるモデルになる――と彼らが望んでいる――新しい種類のメディアを国と世界に提供していると考えていることである。

「支配されることを避けるため」VIVEは広告を採らない。番組が草の根の意見を伝えるので、番組には実際に政府に対する批判が多くある。だがこの批判は、主流の民間放送局のそれとは異なり、作られたものではなく、率直で真情あふれている。軋轢を生み出そうと試みるかわりに、それは建設的である。

直接政府の管理下にある国営公共放送局とVIVEに加え、ベネズエラには25%の番組が局自身ではなく独立した製作者によって製作されなければならない、と民放に課す新しい法律がある。これはある種のサービス用件なのであるが、興味深いことに、この下請けの製作者たちの多くを訓練するのがVIVEなのである。ここにもまた抵抗する態度と習慣に抗した新しい方法を作り出している新しい機関内と、古いものに挑戦する新しい機関を経由した古いやり方への、対照効果によって、あるいは完全な競争により、そして独立した製作者を通し古いものに思想を注ぐことを通した、ある種の多面的で合法的な、密やかな侵入と言えそうな徴候がある。ベネズエラはさらに、ニュースと中南米全域の貧しい者の声を放送するため大陸の放送局事業〔TeleSurのこと〕に着手したが、私たちは訪問する機会がなかったので、ここでは触れない。

経済について言えば、ベネズエラは他の第三諸国に比べ大変有利に着手することができる。石油産業は国営化されており、社会経済の中核を成している。さらに、石油産業が収入の莫大な流れを提供していることは、他のいかなる反体制的な国が新しい道を計画しようと試みる一方で享受したものとは異なっている。同様に、石油は米国の非常な関心を引き起こすのみではなく、同時に米国の介入に対して相当な防衛をも提供している。

しかしながら、私たちは石油産業の職員から、いまだ多くの超国籍企業がベネズエラ石油商業の様々な面で請負をしている、と聞かされた。政府の反応は彼らに挑戦するのではなく、まして収用するのでもなく、超国籍企業との競争に勝つことを意図された、同じ働きをする新しい協同組合を形成することである、と彼は言った。この新しい協同組合は労働者により自主管理される。彼らは通例平等の賃金を要求し、最も平等主義でない組合でも比率は最大で3対1である。これに加えて、最低生活賃金が保証されている。徐々に実施されている考えは、諸協同組合を統合することであり、それは市場の規準ではなく社会的なそれを通して彼らの交流と交換を促進する。私が感じたところでは、理想像は将来、ほぼ独占的に協同組合に契約が行き、それにより超国籍企業が自発的にただ単に去ることであり、そこに衝突は必要ない。

私は超国籍企業を追い出す戦略として市場での競争を利用することは、市場の考え方を確立する危険があると職員らが考えていないのか聞いたが、質問はうまく理解されなかった。似たように、市場競争を主要な戦略として利用することが、自主管理に古い様式の目的と手段を強い、変化に対する許容度を大いに縮小させ、ことによると新しい体系にとって代わられる原因となりうることを職員らが心配しているかという私の質問にも答えがなかった。そこには資本主義と、その私的所有に対する非常に大きな反対がある。所得の大きな格差に対する多数の反対がある。服従と支配をもたらす仕事の種類における格差に対する相当な反対がある。だがごくわずかな人々のみが市場それ自体に敵対的であるようだ。

それにも関わらず、市場を否認しているように見える、わずかな人々の中のひとりがチャベス彼自身である。それ以外に彼の国際経済学への対処の仕方を説明できるであろうか。それは予測されるようにIMF〔国際通貨基金〕、WTO〔世界貿易機関〕、世界銀行、そしてとりわけFTAA〔米州自由貿易地域〕を退けるのみでなく、同時に、共通の援助を基にした、そして基本的に市場貿易の相場に背き、その代わりに真の完全なる社会的経費と利益を見地とした商取引に着手し、公益による利益をただ平等に分配するのではなく、より貧しい関係者により有利なように分配する方針を含んだ代替案を打ち出し始めている。これは疑いなくベネズエラがキューバとのみでなく多くの近隣諸国、それに加え、中南米全域の特定の稼動している工場と結んでいる広範な一連の協定の判断の元であるように思われる。例えば、驚くほど低い料金と、利益となる条件のもと石油を提供し、多くの場合商品との交換であり、支払いはない。これはキューバによる貧しい諸国への援助と物資の割引した歴史的な輸送に大分似ているが、規模が非常に拡大されており、キューバが主に医師のように人材を提供したのに対し、ベネズエラは資源と経済的な製品の上で行っており、特に市場原理をより直接に破壊している。

石油職員とのやりとりに話を戻すと、米国で操業しているベネズエラ所有の石油会社であるCITGOについて私がCITGOで働いている人たちのみに利するのではなく、米国内で他の米国労働者に自主管理と公平さの可能性の実例として、自主管理のための労働者評議会を持つ方向へ向かい、平等な賃金へと向かい、分業を変えてゆく可能性を尋ねたとき、職員たちは興奮し、すぐに他の人たちを呼んで、この案を話したがりさえした。後の論議で、CITGOないしは他の方法を通じ、メディアと情報流布のうえで米国にベネズエラが――常に逆の方向でのみ発生している情報侵入の代わりに――侵入するという可能性は更なる熱狂を引き起こした。

私たちは石油省役人ら、労働組合員たちやその他の人々に、アルゼンチンでと同様に、ベネズエラには破産しそう又は破産した職場を「取り戻す」、やっと軌道に乗り始めた運動があることを聞かされた。違いは、アルゼンチンではこれが政府の意向に反して起こっている一方で、ベネズエラでは政府がそれを歓迎し、促しさえしている点である。事実、政府は今までのところ、700のその様な工場の一覧を集め終わり、労働者らにそれらを占有し独力で経営するよう勧めている。他の違いは、ベネズエラでは、取り戻された工場のために採用された意思決定の方法は共同経営と呼ばれており、労働者評議会と政府代理らの両者が関わるという点である。これの良い面は影響下の職場で政府が多くの場合、労働者の横におり、教育し励ます手助けをすることである。否定的な面は政府の中央集権化する傾向と、真の自主管理の直接参加傾向とが反目することである。私たちは両方の傾向をボリバル大学で見た。政府大臣が時に急進的な教育学を相容れない学部に押し付けるのだが、同時に労働者評議会の影響力を弱めるのである。だが実の所、ふと思ったのだが、政府が拡張しすぎていて、広範な取り戻しがあった場合、政府の関与はわずかになり、労働者は実質的に自主管理をするに任せられるということもありうる。

ベネズエラでの工場取り戻し運動のほかに、政府は一から新しい生活協同組合を生み出している。これは同様に少なくとも理論の上では共同経営され、同様に公平な報酬を要求する傾向があり、その他同様である。これらの生活協同組合は多くの場合小規模で地域的であり、小さな服屋から小規模な建設計画まであらゆるものを含むが、コンピュータ生産、資源採掘、航空運行等をする新しい諸会社を生み出す諸計画も存在している。

私が聞いて判ったことでは、生活協同組合は古い資本家企業と競って凌ぐことが期待されている――生活協同組合は(削減された経営支出の比率、縮小された経営者の数や交代して行う仕事の役割のため)諸経費が低いことや、生活協同組合の労働者は新しい社会関係の下、より堅実にそして精力的に生産する傾向があるということを考えれば、非常に理に適った期待である。とはいえ、生活協同組合の戦略の危険な点は、市場の規準とやり方を通じて運営すること、そして特に市場に定義された競争で古い企業を凌ごうと試みることが、彼らに経営上の官僚制や社会的ではなく競り合いの態度を確立し、市場社会主義と呼ばれるものへと向かわせる可能性があるということである。私の考えでは、この市場社会主義は、支配的な経営上あるいは調整者の階級を有する制度であり、急進的なベネズエラ人が明らかに望んでいるもの――人々が社会的に動機を与えられ暮らし向きが良く能率的であり、社会的に密接な関係に満ちた観点で個人的な、そして集団の福利を追求するという、無階級・参加型・自主管理の経済――へと駆り立てるやり方の代わりに、競争価格と収益黒字の追求という観点で機能する。

石油以外の経済部門ではいまだ優勢な資本家の企業においても、雰囲気のうえで変化がみられる。労働者達は国家に対し、より一体感を持ち、ある労働組合指導者の言によると「変化のための更に見込みのある機会」を指導力によって提供する味方であると感じている。このことが資本企業の労働者が「古い労働組合の規準と方式に挑む」ことに、そして「他の人たちが新しい生活協同組合を築いている一方で、古い関係に行き詰って」いることに居心地の悪さを感じる結果に至らせた。この労働組合指導者は「80%のベネズエラ人労働者がチャベスを強く支持している」と予測した。さらに彼女は、より優れた労働組合が資本主義の所有者に反してでも、自主管理を強く主張することを考えている理由はそこにある、と述べた。彼女は言った。「職と労働組合の自由」を守ることを追及していた「当初、倒産しかけた企業を占有する事は自己防衛であったのだが」、最近になるとより先進的な組合が「共同経営や自主管理を勝ち取る、より堅実な戦略」を追求するようになった。

彼女は私たちに「5年か6年前には、典型的なベネズエラ人労働者は、いかなる階級意識も見せなかったが、今ボリバル革命が階級意識を労働者のみでなく、全ての人々に喚起している」と語った。私は「成功している資本家企業の労働者らが、状況の管理や公平な収入を経験している協同組合や取り戻された企業の友人を知っていて、所有者に対しストライキを行い、政府にその企業を接収し自主管理編成にするよう請願した」場合何が起こるのか聞いた。彼女は「彼らが労働者との共同経営に着手するなら、貸付と投資」を民営の所有者に提供するという示談が成されるであろうことを語った。私はなぜ実業家ら「が、己の消滅への第一歩であるのが明白な時に、その様な愚かな取引をするのか。たとえ短期的な利益があったとしても、なぜ彼らはそうするのだろう?」と考えた。さらに私は「労働者が本当に成功している企業の接収を望み、所有者には何も与えず、ただ接収したら? なぜベネズエラ中の労働者がそれを試みていないのか? そして彼らがそうした場合何が起こるのか?」と尋ねた。

労働組合指導者は「もちろん実業家たちは馬鹿ではないが、彼らは私たちが馬鹿であると信じている」と答えた。彼女は組合が「革命的なウイルスを労働者達に」流布していることを語り、私は再び、なぜそれがひとりでに急速に広まらなかったのかを聞いた。彼女は「新しい一歩を踏み出すことを恐れた、古い組合指導者」を非難した。しかし彼女は「わずか2年前には誰も労働者が管理する工場など信じなかったが、今20以上あり、700以上が生産再開するべく占有の調査を受けている」とも述べた。彼女は「人々の意識を高めることとともに」この全てを成す必要性を指摘した。彼女は「人々が望まないのに、素早く事を進めても旨くいかない」と言った。また、彼女は実業家たちが「いまだに労働者を、特に指導者らを操り、買収しようと試みている」ことに言及した。

さらに私は国際関係について明らかな責任を負う、この労働組合指導者に、米国の運動や組合との関連について尋ねた。彼女は、ベネズエラのチャベス派組合が「カリフォルニアのAFL-CIO〔アメリカ労働総同盟・産業別組合会議〕、いくつかの草の根の組合、そして反戦運動」と関連をもっているが、全国的なAFL-CIOとはなく、それは彼らが今もなお古い官僚制を強いたり、クーデターを扇動している人々に資金を提供していたりしているからである、と述べた。

私は彼女に有給の全労働人口の女性の割合を尋ね、彼女は「約50%」だと答えた。私は男性のそれと比べた女性の給料を聞き、彼女は同じ職には差異はないが、「女性は男性に比べて良い職を得られない」と言った。私は占有された工場では物事は更に良いのかを質問し、彼女は「私が言える限りでは、ある程度良いが、理想的ではない」と述べた。彼女は「女性の二重の仕事が、彼女たちの組合運動へのより深い関わりにとって、最大の障害です」と言った。私はボリバル運動がそのことに取り組もうとしているかを尋ね、彼女は「新しい憲法は、家事は社会保障を目的とした労働であると承認されなければならないと述べている」と言ったけれども、私が男性と女性がそれをより平等に行っているかを聞くと、彼女はそれが「非常にゆっくり進展している。草の根の段階では多くの女性が、二重あるいは三重の仕事にも関わらず参加しているが、私たちの男性はとても男臭く、残念ながら多くの女性が全ての家事をすることで彼らを甘やかしている」と語った。彼女は家庭で沢山の助けを得ていることから、彼女の状況は異例であると言った。

大要

旅で私が感じた事は...

(1)ボリバル運動、そして特にウゴ・チャベス大統領は人々を左傾化させている。それ以上に、ボリバル運動、そして特にウゴ・チャベス大統領は古い資本主義の形態を、彼らが反資本主義、参加型、社会主義、ボリバル主義、その他の肩書きで呼んでいる新しい形態と取り替えようと試みている。彼らは直接、力によって古い構造に挑戦し、また引き継いでいるのでも、取り除いているのでもない。彼らは合法的に社会の隙間に新しい形態を育み、そして対比により、また社会的に受け入れられる競争を通じて、ベネズエラの古い形態は劣っていることを示し、ゆくゆくは新しい形態が合法的に古いものに勝つことを期待している。しかしこの新しい形態が何であるのかについては、政治的な規準や構造に関しての方が、経済的なそれに関するよりも遥かに明確である。革命の最終的な目標を明確にし、擁護することを目標とし、同時にその目標の知識、継続的な評論、そしてそれらを豊かにすることを、いく人かの指導者のみの所有物ではなく、国民に共通の所有物にすることを目的とした、全国的な調査、討論、意識向上の運動が望まれるところである。

(2)ボリバル人の例外的な過渡期の接近法は、ボリバルの指導者らが観念論的にまた計画遂行のうえで大衆の遥か先におり、その大衆が自ら進む傾向よりも、より先へそしてより速く進むよう試みているという先駆者的な特徴がある。それは、たとえ国家の大統領によってであっても、大部分は下から上へと運動が育まれているという無政府主義者の特徴がある。それは並行して存在すること、そして暴力なしで、また対決すらなしで広く行き渡ることを追求している。それは新たな支配を生み出すことを防ぐため、現在において未来の種子を体現することを追及している。それは力ではなく証明により支持者を勝ち取ろうと試みている。

(3)ひとりの指導者の中心的な役割は、少なくともそれがウゴ・チャベスであるという点で、きわめて意外な利点であるように思われる。今までのところチャベスは相応しく、鼓舞するだけではなく、大胆で勇敢であり、あらゆる枠から飛び出し、次から次へと計画を実行し、実験し学ぶ一方で、さらに中央権力の利用という装具に対する注目に値する抑制を示してきており、反権威主義の影響力の主要な根源にすらなってきた。同時に、ひとりの指導者――ウゴ・チャベス――の中心的な役割が、おそらく不可避なのであろうが、欠点であることも事実である。この指導者が悪くなる可能性はあるし、あるいは存在しなくなる可能性もあり、現時点ではそのどちらの事態の展開も災難をもたらすであろう。これに関連した問題は、左翼からの真剣な反対の欠如である。革命は意見の衝突、論争や多様性から利益を得るのだが、これらの属性は孤立した意識の中からは生じにくいのである。誰がチャベスの後を継ぐのか、そして、指導力と革命の目標についての大規模な国民教育でもない限り、いかにして人々が指導者達の後を継ぐのか、と人は疑問を抱くだろう。

(4)最後に、新しいものが同時に生み出されたうえで、古い体系に競争し勝るという発案は、強さを引き出すと共に、物事を避ける弱みをも生じさせるとはいえ、ボリバルの事業に恐ろしい地獄をもたらしかねない不穏当で早計な対立を回避するという点で、非常に巧みで有益である。しかし、新しいものが同時に生み出されたうえで、古い体系に競争し勝るという発案は、さらに少なくともひとつの点で有害であり、その理由はそれが競争の特質や方法を根付かせ、官僚的で階級的偏見のある構造を強化するからであり、また後に事業全てを弱らせないよう、早期で大掛かりな注意を要する、過去の抵抗の特徴を顧みない可能性があるからである。

私の総体的な印象は、ボリバル革命はいまだに漠然としているということである。それは明確に宣言された男女同権論者〔feminist〕の政治活動、反人種差別の政治活動、あるいは反資本主義の政治活動すらなく、それら3つの事例全てにおいて傾向が非常に人道的で急進的であり、その見地において最大限の目的を宣言し、早急な計画を提案する方向へ向かっているにもかかわらず、である。チャベスは識見の非凡な触発者のようであり、彼自身たいへんな速度で左傾化している。ボリバル革命は観念論的に最も明瞭であり、それはチャベスの軍の経歴を考慮に入れると、皮肉であり、彼を代表した強力な証明でもあり、政治的民主主義と政治参加に関しては、よく考え出され、説得力があり、革新的な制度の理想像にすでに専心しているようであり、その理想像はスペインの無政府主義者らが提案したとき以来の他のいかなる革命案をも凌駕する。

未来は不確かである。ボリバル革命は依然として社会民主主義に留まる可能性がある。自主管理ではなく共同経営がその方向へ率先するかもしれない。それは依然として典型的な古い様式の「社会主義者」の方向へよろめく、あるいは突進すらするかもしれない。その市場戦略と、資産ではなく労働の分割を基にした階級分裂についての明確さの欠如がその方向へ進ませる。政府が大衆を促しているときには必ず権威主義〔authoritarianism〕の危険がむろんある。しかし同様に、ボリバル革命は、より良き世界と、より良き世界へと到達する独創的な手段の両者についての、注目すべき手本を提供する可能性がある。以上で述べた予測、あるいはそれ以外のどれが生じるのかは、主としてチャベス、ボリバル主義諸運動、ベネズエラの人々にかかっているのだが、米国がこの試みを腐敗または破壊する前に、特に米国の攻撃的な傾向を抑えるための大規模な外部の支援もまた大いに必要とされている。

私は啓発され、また希望に満ちてベネズエラを後にした。私には、ベネズエラはアンクル・サム〔米合衆国〕の最悪の悪夢に見える。私はボリバル主義の独創性と確固とした様により、そして世界の最もならず者で残忍な国家の私自身の継続している市民権によって謙虚になった。その国家に対し、私と他の急進派は、組織化のあまりにも限られた成功しか遂げていない。望むところは、私の国がベネズエラの大志を押し潰すのではなく、その率先の後に続くことができるといい。望むところは、米国の市民がそれを現実にすることができるといい。もちろん、政府筋はそうはしない。



posted by Agrotous at 23:29 | TrackBack(0) | ベネズエラ
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